オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび669

高田康成「キケロ」を読む

 


「ローマの雄弁の最高の父」であり、同時に「軽佻浮薄な不幸な老人」でもある。いったいこの真反対な言われようから人々は、どのようなキケロ像を描けばよいのだろう。

まずは雄弁家としてのキケロ。スッラから逃れるようにギリシアへ留学に向かった20代の頃。その頃の彼は胃弱で痩せており、スピーチは粗く柔らかさに欠けており、激しい熱のこもった話し方になると調子が高くなり、周りがハラハラする程だったという。発声法が身についていなかったのだ。これは現代の日本の政治家にも言いたい。まずは基礎的な発声技術を身につけてほしい。

彼は「発想論」の始めでこのように書く。「雄弁なき英知は国政に有益ではない、しかし英知なき雄弁のほうは大いに有害でありまったく役に立たない。」著者は雄弁と哲学に関して、哲学が必要条件を、雄弁が十分条件をそれぞれ同時に満たすような場合が、キケロが考えた理想的な関係と捉えている。

具体的にキケロは「弁論家について」という著作の中で、弁舌さわやかに語るためには、なによりもまず文章化するという作文の練習が欠かせないとしている。弁論家キケロの文体は完成文として、やがて中世ルネサンスの人文学者に大きな影響を与えていく。

本書第三章「舞台の上のキケロ」では、たびたび演劇の題材として取り上げられてきたクーデター未遂事件カティリーナの陰謀を、劇作家の巨匠がどう描いてきたかを辿っている。

哲学者として政治家として、今もキケロ西洋文化の礎として生き続けている。多くの西洋人が彼の論じた文をラテン語で習うのだ。ラテン語はヨーロッパにとっては古代ローマ帝国で用いられていた古語に過ぎないのだけれど、まだ脈々と文化の根底を流れている。ボク自身のラテン語体験は、学生時代からミサ曲を歌ってきた経験かな? その典礼文はラテン語で書かれている。ほとんどの発音がローマ字読みであり母音も日本語の母音に近いので、あまり苦労しないで歌い始めることができた。

今回キケロの本を読んで、改めて西洋文化に対する理解が浅いことを自覚させられた。では日本文化に対してはわかっているのかと問われればそれも答えに窮してしまうだろうけど。キケロ西洋文化の流れを理解する重要なキーマンなのだ。

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