原田恒弘編「群馬歴史散歩 173号」を読む。
いのちあらばまたもきてみむ草津なる
神のいでゆはあやにかしこき
草津温泉は有名な観光地であるし、ボク自身もリピーターを自負しています。そこで本書からは、今までボクが知らなかったことのみを抜き書き的に拾い出してみます。
湯畑の下に落ちている湯滝のそばに燈篭が立っている。かつてはこの傍に不動堂があり文政十三年伊勢太々講中の人々によって寄進された。川端龍子の出世作「霊泉由来」はこの燈篭を元にしている。
戦国時代も傷ついた兵士たちに、草津温泉での効能は有名で、温泉で乱暴狼藉をはたらき、一般人が入れなくなったことがあった様です。武田信玄がそのような者も含めて入浴禁止の朱印状を出しています。
豊臣秀次、前田利家、錚々たる武将が訪れていますが、徳川家康は湯を汲み上げて運ばせたようで、将軍お汲み上げの湯として名を残しています。
続いて江戸時代の話
元和元年の記録による江戸時代の草津温泉の宿。表屋敷三十五軒、裏屋敷二十五軒、合わせて六十軒。ちなみに有馬温泉が五十八軒。
安政二年の宿泊人員は、19044人が最高。一人当たりの湯治日数は平均17泊。先の1日の記録にかけると323748人。しかも4月8日〜10月8日までしか営業していなかった。
湯けむりにふすぼりもせぬ月の貌
「上州草津温泉道中・続膝栗毛第十編」「方言修行善光寺草津温泉道中金草鞋」を著している。
宿がすでに三階建であったことや湯壺の大きさ、流れ出る滝の数などがわかり、観光ガイドにもなっているのですね。
明治になりまして、
この山にベルツ博士ものぼり来て
湯治のことを通信しいる
茂吉の本業は医者で、出身は現在の東大医学部。当然ベルツ博士のことも知っていたのでしょう。
現在の群馬県知事は山本一太氏でありますが、草津町の出身です。ベルツ博士の業績を記録した草津温泉の医療という章にお名前が登場します。