オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび685

渡辺信一郎「中華の成立 唐代まで」を読む1

 


お江戸コラリアーずで組曲ハレー彗星独白」の「弥生人よ きみらはどうして」という歌を歌った。大岡信さんの詩に、吉野ヶ里遺跡を思わせる集落が描かれている。周囲に塀や堀を巡らした村の原型は、中国古代、殷・周時代の邑(ゆう)に見られるようだ。山西省西南部にある龍山文化期の陶寺遺跡などは、すでに埋葬を通して階層文化の存在を示していて、吉野ヶ里遺跡を想像させる。

中国最古の王朝は夏と呼ばれる。文字資料が少なく伝説化しているが、著者は河南省の二里頭文化が夏王朝と密接な関係があったと指摘している。二里頭ではすでに巨大な宮殿が二棟発見されているのだ。

続いて殷。殷は周によって呼ばれた名であり、自らは商と呼んだ。直属軍として師と呼ぶ軍団があり、初めて戦車を用いた。さらに周になると王は自らを天子と称するようになる。この時期の統治の特徴は、貢献制から封建制に変化したこと。歴史学習に出てくる封建制は、ここから始まったのですね。

百官百生と呼ばれ支配者層に属していた人々が、庶民百姓に転じる過程も説明されている。その背景に小家族が主体となる農業経営への変化があるという。決して裕福とは言えないが、農機具が進化したことで同じ畑からの収穫が安定し、領主に納める一割の税をひいても食料・衣料を何とか確保できる時代になったのだ。

吉野ヶ里遺跡の話に限らず、古代においては、日本が中国社会の後追いをしていたことがよくわかります。

 


明日の投稿に続きます。

 

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