渡辺信一郎「中華の成立 唐代まで」を読む2
国内の民を戸籍に登録して管理する。登録したら租税・軍役を課して国を強くする。その戸籍を最初に作った人が秦国の商鞅でした。実際、秦国は最強の国となり、やがて始皇帝の時代を迎えるのです。
それまでの血縁関係より支配者的な立場を確保していた時代から、軍功を立てた者が支配者の身分を獲得するという大きな改革でした。血縁から能力主義へ。
商鞅の変法と呼ばれる改革は、法を元にした中央集権国家を目指していました。民家を什伍の単位に分けて、互いに法律を破る者がいないか監視させ、誰も名乗り出ない場合には連帯責任を取らせました。
容赦ない法による管理取り締まりは、貴族支配者も同様なので恨みを抱く者は多かった。二回目の変法(改革)の後、彼の後ろ盾とも言うべき孝公か亡くなると、反発が表面化する。都から逃げて宿を乞うが、旅券を持っていない者は、商鞅様の取り決めにより泊めることができないと宿屋の主人に断られてしまう。宿屋の主は商鞅の顔を知らなかったのであります。自ら決めた法により窮地に追い込まれた商鞅は、やがて秦国の軍隊に捕らわれて、車裂きの刑を受け、晒し者となる。
その後、漢の時代に引き継がれ、現在も日本・中国・台湾に戸籍制度があるのは、皆様よくご存知でしよう。
少し時期を経て始皇帝の頃、封建制から郡県制に移行する。県の数は1200〜1500というから半端ではない。中央集権国家とそれを支える官僚制が出来上がるのです。
明日の投稿に続きます。