渡辺信一郎「中華の成立 唐代まで」を読む3
始皇帝が始めたことは実に広範に及ぶが、国内の幹線道路網および駅伝制を整備した実績も大きい。人・物の移動がスムーズならば経済は発展していくのだから。
本書は続いて、漢の領土を広げて大帝国を築いた武帝とその均輸・平準政策や前半生が実にドラマチックな宣帝にふれながら、前漢時代について書いていく。
いよいよ前々回本書を読むきっかけとなったと書いた王莽が登場します。本書では王莽の世紀と題し、その影響の大きさを評価していますが、中国が文化大革命で根こそぎ価値観を変えるまでは、儒教を重んじる国であったのは、王莽が出発点だったのですね。
「儒家的祭祀、礼楽制度、官僚制の骨格は、(上記の)天下を領有する名前とともに、清王朝にいたるまで継承されることになる。のちの諸王朝は、漢を模範と仰ぐことが多いが、その漢は前漢ではなく、後漢の国制であり、それは事実上、王莽がつくりあげたものであった。」と説明されている通り、儒家思想による統治を確立したのは王莽で、そのシステムを後漢が引き継いだのです。
また、本の虫と言った表現がぴったりの王莽は、教育に熱心でありました。学校を整備することで儒教思想を隅々まで根付かせようとしたのですね。
王莽は、初等教育段階からの整然とした学校制度を整備し、郡や国には「学」、県や(異民族が住む)道、(有力者の領地である)邑、侯国には「校」といった学・校という儒学を教えるための校舎を設置し、「学」と「校」にそれぞれ経師(儒教を教える教師)一人を置いている。また、郷にも「庠」、聚には「序」を設置して、「序」と「庠」にもそれぞれ孝経師(『孝経』を教える教師)一人を置いた。この「学」・「校」・「序」・「庠」の学生は、漢代には「諸生」と呼ばれ、後漢時代には、中国のあちこちに設置されるようになった。王莽による本格的な学校制度の整備は、その後の中国社会における儒学の普及や地方社会の文化的向上の促進にとって、おおいに意義のある政策であり、王莽は重要な歴史的役割を果たしている。
学校という熟語の語源は、王莽なのです。