十字架。ロザリオの先端に、クリスマスツリーに、そしてもちろん教会で私たちは十字架を見ている。本書の副題、十字架の使徒とは何か?
「殺害されたままの状態のキリスト」こそが、同時に「神の栄光」の体現者である。この逆説は、もろくて弱い土の器である私たちの身体も、十字架にはりつけられたまま殺害されているのと同じなのだとパウロは伝えたいらしい。言うまでもなく十字架刑は極めて残忍な処刑法です。思わず目を背けたくなるような状態のイエスから目を逸らさずに、しっかり心にとどめ置くこと。
続けて「イエスは十字架にかかって、私たちの罪のために死んでくださった」という記述は、聖書のどこにもないと著者は言う。十字架に架けられた者は、神によって呪われた者であるが「呪いこそ解放、そして祝福」とパウロは説く。これはいわゆる贖罪論とは違うぞ。すごい逆説!
イエスは「力は弱さにおいて完全になる」と、身体に障害があったと言われているパウロに語りかけたとされる。「殺害されたままの状態のキリスト」と障害がありながら布教を続けるパウロの姿、さらには拡大して弱き者たち全てが、どこかでオーバーラップしている気がする。
本書の最後の辺りで、イエスが磔になり犠牲になったことで、私たちの罪が許される、いわゆる贖罪論について、著者は痛烈に批判を加えている。犠牲として死んでいった人々を美化する傾向は、日本では靖国の問題とも共通するのかもしれない。キリスト教がユダヤ教から離れる中で、律法に厳格なユダヤ教の枠組みから一歩はみ出す過程で、贖罪論的な要素が残ってしまったのではないかと論じている。
パウロが説いたのは「律法を守らない不信心なものを無条件に義(正しい)として肯定する神」だったのです。
最も恐ろしいのは、贖罪論を悪用して、多くの人々を戦争に駆り立てている指導者かもしれません。