オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび711

平野啓一郎「私とは何か」を読む。

 


分人とは、個人を1とした時に分人は1を構成する分数だと言う。分母や分子の数は人によって違うが、分人の合計は1になる。そして分人は、その人を取り巻く人間関係によって築かれていく。

人格が他者との関わりの中で形成されていくという話は、至極ごもっともに響くが、長い間一人っきりで他者との関わりがないまま、暮らしてきた人がいる。

例えば旧日本兵で密林の中を生き抜いてきた横田さんや小野田さん。軍隊の中で形成された分人のまま、生き抜いてこられたのですね。

また現在引きこもり状態の方々の中にも他者との関わりが極めて希薄な人はいるでしょう。引きこもりになる前に接していた他者との関わりが「引きこもりに陥る分人」を形成されたと理解すべきなのでしょう。

ちなみに「自分」の「分」は、分けると書きますが辞書の意味を辿っていくと「天から分け与えられた性質」と出てくるらしい。平野流に言えば、それは人間関係から形成された分人ということになるのでしょう。

ボク自身の話。音楽などなど表現活動に関わっている時のエモーショナルな自分と人前でいい気になって屁理屈を並べている時のほどほどにロジカルな自分を抱えている気がしています。平野流に観察すれば、それはその場にボクと居合わせていた人間関係の中で形成された分人なわけです。

けれどふとメロディーを思いついてメモを書き留めたり、身体の中がある曲でいっぱいになった結果、アレンジを試みている場合は、どう説明したらいいのでしょう。意識できる自分の底に、無意識の情動が横たわっている気がするのです。

ですからあくまでも本書は自覚できる、意識できる自分について語った本ではないかと、ボクは理解しました。

冒頭の演技者については、同じ台本で演じていても俳優によって演じ方が違う。本書の論法でいけば、演技者が発揮する分人化は、それまでに経験してきた人間関係が反映しているのだろう。自分が出会ってきた誰かが役づくりに反映されるのではなかろうか。

芝居を離れても、何かを演じ分けなければならない場合に当てはまりそうです。

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