チェット・フリッポ 柴田京子訳「Yesterday」を読む2
ポールとジョンが出会うバンドは、ザ・クォリーメン。演奏の合間にボールはジョンに引き合わされてギターのチューニングを教えたり、演奏を聴かせたりした。
いかにもジョンらしくひねくれているのは、ボールの才能に心底驚きながらも、メンバーに対して「君が入れたいなら入れてもいいよ」的な発言をしているところです。ポールの音楽性に嫉妬したのかもしれませんが、リーダーのジョンが首を縦に振らなければ、のちのビートルズはなかったのですから。
ポールがザ・クォリーメンの演奏に初参加したのは、1957年の10月18日。ボールは左利きだが左利き用に弦を張り替える方法を知らなかったので、何とギターを逆さまに持って演奏している。彼がバンドの中でギターを担当したのは、この時が最初で最後。
1958年。ザ・クォリーメンはレコードを作っている。レノン=マッカートニー共作による初のレコードで、な共作であっても単独で書いたものであっても名義がレノン=マッカートニーとなった。
その後しばらく停滞したが、1959年8月29日モナ・ベスト夫人の店「カスバ・コーヒー・クラブ」で、ザ・クォリーメンは演奏する。この頃のバンド名は、シルヴァー・ビートルズだったりビータルズ(Beatals)だったり、安定しない。昆虫名のもじりでBeatlesになるのはもう少し先。
メンバーについても初めの頃のドラマーは年長者36歳のトミー・ムーアだったが、彼は嫌気がさして本来の仕事を選択した。ムーアが抜けたステージにドラマーとして暴力団のリーダーであるロニーが飛び入り参加したこともある。もちろんめちゃくちゃだった、ビートルズの客層は、一瞬即発で喧嘩を引き起こすような輩かたくさん含まれていたのだ。この頃ビートルズはかなり困っていて場末のストリップ小屋で演奏したこともある。
さて、ドラマーがいないのは致命的な話で、モナ・ベストの息子ビート・ベストに白羽の矢が立つ。
ハンブルグの話を始める前に、この頃のビートルズにステュアート・サトクリフがいたことを書いておかなければならない。初期ビートルズのベースはステュだったのだ。彼は美学校生でジョンととても仲が良く画学生として志をもっていた。
ハンブルグ旅行のマネージャーは、アラン・ウィリアムズ。彼は休暇中の学生という名目でビートルズを連れて行こうとした。しかし、彼らには労働許可証などなくジョンに至っては家族の事情からパスポート取得さえ一苦労する有様だった。また現地のナイトクラブに出入りするには彼らはまだ全員ハイティーンであり、法律的に許されている年齢ではなかったのだ。
明日の投稿に続きます。
