チェット・フリッポ 柴田京子訳「Yesterday」を読む3
ハンブルグに着いたビートルズは、インドラというクラブに連れて行かれ、暗がりの中で「イギリスはリヴァプールからやってきたごきげんなビートルズ」という小さなポスターを発見する。
1960年8月17日夜、ビートルズはハンブルグ「インドラ」で演奏している。会場はストリップ小屋を改装したところだった。
ボールの観客にウケる、父親譲りのショーマンとしての資質が開花し始めたのは、ハンブルグのステージからでありましょう。またジョンの書く曲が一人称で内省的であるのに対して、ポールの曲は三人称で他人についてコメントする。この補完関係はその後もずっと続き、ビートルズの魅力を織りなしていく。
ただハンブルグで徐々に人気を獲得していったのは、アメリカ発のロックンロールであり、騒々しいウケ狙いのショーだった。
このショーに溶け込めないメンバーがいた、ステュアート・サトクリフ。彼は、やがてベース奏者をボールに譲り、1961年5月にうなビートルズを去る。早世した彼にとってビートルズ時代とは何だったのだろう。
ジョンとポール主導の騒がしいショーを、影で支えていたのはジョージだった。この頃はメンバーの中でジョージの演奏力が高く、音楽を成り立たせていたのはジョージだったのです。
やがて彼らはハンブルグのカイザーケラーに演奏拠点を移す。そこでクラウス・ヴーアマン(フォアマン)や写真家アストリッド・キルヒャーと知り合います。クラウス・ヴーアマンはリボルバーのジャケットでお馴染み。アストリッドはサトクリフと恋に落ちるのですが、サトクリフに施した髪型が、のちのビートルズカットになるのです。
リバプールからハンブルグに来ていたロリー・ストーム&ハリケーンズのリンゴと知り合い共演するのも、この頃の話。当時のビートルズはピート・ベストがドラムを叩いてきたのですが、イギリス帰国後1962年8月レコード発売を控えたビートルズは、ビート・ベストを解雇し、リンゴ・スターを加入させる。
1960年11月30日、ジョージが17歳であることを理由に彼らはマネージャーから辞職勧告を突きつけられる。背景はより待遇のいいホールに移りたい彼らとマネージャーが揉めたのだ。かくしてドイツから国外退去を食らったビートルズはリバプールに戻った。
彼らが、バンドとしてショーマンとしてハンブルグで地力をつけたことは間違いない。しかしながら、プロを名乗るにはあまりにも収入が少なすぎた。ボールはリバプールに戻ると職探しを始める。けれどどれも長くは続かなかった。
この時期、ビートルズに短期間参加していたチャス・ニュービーという人物がいる。サトクリフがハンブルグにいるため、短い期間ではあったけど、ビートルズにベース奏者として参加していた。
すっかりスタイルを変え、ロックバンドとして成長を遂げた「再結成ビートルズ」は、リバプールで熱狂的に受け止られる。
しかし、ビートルズのハンブルグへの旅はまだ続く。18歳になり年齢的な問題をクリアしたジョージ。ハンブルグでのボールとビートによる放火事件問題について嘆願・交渉の結果、一年間の期限付きで入獄禁止が解除されたのだ。
二度目のハンブルグでは、トニー・シェリダンのバックとしてレコーディングに参加している。「マイボニー」がシングルカットされ、ドイツでは一万枚売れた。
ショーの構成は、薬や酒でハイになったジョンが、めちゃくちゃな暴言を吐くのを、ポールが抑えるというパターンで、演技なのか本気なのか、わかりにくいところもウケた理由なのだろう。
明日の投稿に続きます。
