飛鳥井雅道編「大杉栄評論集」を読む1
読み進めて驚くのは、大杉栄が白樺派と交流しているという事実。「おぼっちゃまくん」の集まりである白樺派の作家たちと無政府主義者の大杉栄のメンタリティーがどこかで一脈通じているのだ。さらにはトルストイやクロポトキンとの親和性も指摘している。
征服、奴隷。本書に頻繁に現れるキーワードです。アフリカにおける諸民族の慣習を引き合いに、酋長が何でも許される絶対的な権威を保持していることを語り、マルクス・エンゲルスは階級闘争を掲げるが、大杉は歴史は征服とそれによる奴隷の発生が繰り返されてきたと語る。
「籐椅子の上にて」と題した土岐善麿の態度をなじる文章が出てくる。歌人土岐は大杉栄と交流していたのだ。彼をしてディレッタント的な傾向を批判しているわけだが、どこか離れた場所に身を置き、自ら主体として動かない態度が多すぎるのがディレッタントに見えたのだろう。しかしながら同時に、この文章はいわゆる自由主義を標榜しつつ、運動の渦中に身を投じない人々全てに対する批判にも読めてくる。そして最後に土岐善麿の批判が同時に大杉自身への自己批判でもあることを告白している。
「正義を求める心」という文の中に、憎悪の感情を善とするくだりが出てくる。抑圧者に対して憎悪の感情が武器になるとロメン・ロウランの言葉を引いて述べている。
翻って、現在の世はいかに憎悪の感情を我慢しながら、耐えて生きている人の多いことか! 憎悪はオブラートに包むのではなく、その矛先を対象に向けてよいのだ。
この文を読んでいてボクは毎度お馴染みの「水戸黄門」を思い出していた。水戸黄門は、印籠が出て「助さん格さん、やってしまいなさい!」となるまでは、ひたすら悪が蔓延り、視聴者に憎悪の感情を駆り立てるのであります。
しかしながら、その憎悪がSNS上で妙な方向へコントロールされている時がある。ボクは、それが恐ろしいと感じてしまいます。
明日の投稿に続きます。
