オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび636

永国淳哉編「ジョン万次郎」を読む2

 


万次郎が捕鯨船で世界中の海を巡っていた頃、アメリカ西海岸ではゴールドラッシュのブームに湧き立っていた。そして一攫千金を目論む男どもの中に何と万次郎も身を投じていたのである。そしてここで稼いだ金が日本に戻るための渡航資金となるのだ。万次郎はホノルルに渡り現地にいた仲間二人と合流すると「アドベンチャー」号で沖縄に向かう。(アドベンチャー号は小舟だから途中までは上海行きの大きな船の甲板に乗せてもらっていた)沖縄→薩摩→長崎というルートを経て、万次郎はようやく故郷土佐へと戻った。そこから先が目まぐるしい。土佐藩から武士の身分に取り立てられるかと思えば、次には幕府から召し抱えられる。旗本直参の身分になったのだ。幕府はベリーへの対応に万次郎を当てようしたのである。しかし水戸藩徳川斉昭アメリカかぶれの万次郎では、アメリカに有利な交渉をするに違いないと疑い、条約交渉の場からは外されてしまう。万次郎が歴史上活躍し始めるのはアメリカに渡る咸臨丸の船上であった。ほとんどの日本人が荒波による船酔いに悩まされる中、甲板に立っていたのは万次郎だけだったとも言う。その頃の活躍は凄まじく、世界各地を移動する距離も半端ではない。主な仕事は通訳と英語の教授ということになるだろう。

明治に入り、活躍の勢いが緩む。明治四年、万次郎44歳、脚の潰瘍や脳卒中を患い、歴史の表舞台から遠ざかるのだ。

この政治の中枢で活躍した時期というのは本人にとって、どんな価値のある生活だったのだろう? 万次郎は明治二十一年61歳で小笠原方面への捕鯨航海に同行している。万次郎はやはり海の男だった。鯨取りは鯨取りが一番似合っていたのである。

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オヤジのあくび635

永国淳哉編「ジョン万次郎」を読む1

 


ジョン万次郎が日本に戻った幕末、彼のアメリカ体験談が、坂本龍馬を含む土佐の志士たちやその後の自由民権運動に影響を与えたという説がある。偶然にも漂流民の万次郎が到着したのがニューイングランドのフェアヘブンであり、現在に至るまで自由を標榜し続けているアメリカという国のもっともルーツである土地(メイフラワー号が到着したすぐ近く)であったことは、とてもラッキーであった。NHKの朝ドラ「らんまん」の中で牧野冨太郎がジョン万次郎と出会う場面が描かれていたが、明治という時代の幕開けの中で土佐がどんな熱気に満ちた地域であったかを伝えたいたと思う。

さて漂流の末。救助された四人の仲間と共に向かったのが、まだカメハメハ王朝時代のハワイ。万次郎はここで船長の誘いにより捕鯨船に乗り込む。当時のアメリカは油を取るために捕鯨をしていたのですね。マッコウクジラの抹香とは脳油の香りだとか。万次郎は南太平洋の島々を航海するわけですが、バリハイ(ミュージカル南太平洋)で有名となったモーレア島にも立ち寄っています。捕鯨船に仕事はきつかったと思われますが、見知らぬ島を巡る喜びもあったのではないでしょうか?

捕鯨船は鯨を追いかけて、何と南氷洋まで進んでいるのですから。巨大生物と言えば大きな亀を捕まえて仲間を感心させたり、人喰い人種の島を訪れたりもしている。

万次郎の人生をなぞれば、この間船長の故郷フェアヘブンのバートレットアカデミーで航海術等の教育を受けている。何と優等生だったというから、知識の吸収力は素晴らしい!

ただそれだけ太平洋を巡りながら、日本にだけは容易に近づけなかった。鎖国の日本側から言えば外国船打ち払い令が出ていたからでして、攘夷ですね。

 

明日に続きます。

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オヤジのあくび634

パトリック・ハンフリーズ著、野間けい子訳「ボール・サイモン」を読む2

 


サイモン&ガーファンクルが有名になったのは「サウンドオブサイレンス」から。それまでポール・サイモンはどこで何をしていたのか?その疑問に本書は答えてくれる。イギリスでフォーククラブを巡っていたのでした。ボクが大好きな「早く家に帰りたい」を書いたのもこの頃の話。この時期の成果は「ポール・サイモン ソングブック」としてレコード化されている。

ファンは憧れる歌手や作曲家を偶像化する。けれどそれは人間性までも尊敬に値するかどうかは別物なのだ。ベートーヴェンモーツァルトがそうだったように、若かりしポール・サイモンのエピソードにもかなり自意識過剰で鼻持ちならない側面が浮かんでくる。この辺りも評伝を読む楽しさなのだろう。

S&Gが世界的に有名なデュオになり、映画「卒業」がヒットしてからの話は、どこかで聞いたことがあるようなエピソードが続く。でもリアルに体験していない世代にとっては得難い逸話なのだろう。

この評伝の中で繰り返し言及され、筆者が注目している作品がある。それは「ワントリックボニー」というボール・サイモン自身が脚本・主演、もちろん音楽を担当した映画だ。残念ながら私はこの映画を観ていないけど、主人公ジョナはまるでボール・サイモン自身であるかのようだと言う。この本が書かれる以前に実は彼自身が映像を通して、自伝を発信していたのですね。

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オヤジのあくび633

パトリック・ハンフリーズ著、野間けい子訳「ボール・サイモン」を読む1

 


トム・グラフとジェリー・ランディス。コンビ名は二人合わせて「トムとジェリー」。ネコとネズミが駆け回るアニメーションではない。16歳のサイモンとガーファンクルが「Hey School girl」という曲を出した時のコンビ名なのだ。ちなみにビルボード最高位54位、売り上げは10万枚だったという。やがてコンビは学校に戻って行き、曲も忘れ去られていく。何よりもサイモン自身が当時の状況をほとんど語っていない。

サイモンのアルバムを聴いて、課題レポートのようだと評している人がいたけれど、サイモンのアルバムにはその都度彼が関心を抱いた音楽を取り込み、彼流に消化している。イギリスのバラッドだったスカボローフェア、インカ音楽のコンドルは飛んでいく、レゲエの母と子の絆、南アフリカのグレイスランド・・それまでのスタイルや評価にこだわらずに、ただ今好きな音楽を歌っている。こんな自由な彼のスタンスがボクは好きだ。ポール・サイモンの音楽を一つのジャンルに定義付けてしまうことは、とても困難だが、それはいつも彼の中に常に混沌とした音楽の鍋料理がいくつも煮込まれているからだろう。

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オヤジのあくび632

萩本欽一「欽ちゃんの、ボクはボケない大学生。」を読む2

 


後期が始まって大学に戻った欽ちゃんは、要領よく立ち回っている学生に、平均点はズルい感じがすると言う。人生は怒られるか褒められるか、将来社会に出てから役立つ武器は、そのどちらかの体験からこそ得られる流ものなのだから・・と。0点を取るにはズルをしない素直さと開き直る度胸が必要だとも言う。

関根勤小堺一機見栄晴を例に、短所が長所に変わったときこそ、人が最も力を発揮するとも言っている。

ある日大学キャンパスで就職がきまらなくて浮かない顔をしている4年生と話す。どんな仕事でも自分が面白くしてしまえば、いずれはそれを好きになれる。そう考えるだけで働くことの幅は一気に広がると話す。名司会者の欽ちゃんは、コント55号をやめた時に、どんな仕事でも引き受けるが司会の仕事だけは除きたかったという。だから前例のなかったことだそうだが、欽ちゃんが司会の時には横にアシスタントが付いたのだ。

駒澤大学と駅伝の強豪校として有名ですが、欽ちゃんは大八木監督に呼ばれて駅伝チームのスペシャルサポーターになる。真面目そうな選手たちを前に欽ちゃんは「良い言葉を持ってほしい」と語りかける。ある選手が「長い間第一線を歩く秘訣を教えてください」と質問する。答えとして欽ちゃん曰く「ボクはどんな成功や失敗があっても、次にあれが楽しそうだと心や目を次に向けてきた。そうしたらいつの間にかここまでたどり着いた。」さらに努力のコツとして「周りが自分を見ている」「見られている」という自覚が大切と説く。人は期待されればされるほど努力するという考えなのだ。欽ちゃんが選手に心構えを質問した時、ある選手が「頭を丸めてきました」と答えた。質問と答えとの距離が遠いほど、見ている人は想像力を働かせる。これが今のテレビに足りないと欽ちゃんは言う。

本書は最後に欽ちゃんと大八木監督の対談が掲載されている。強面で選手のことを大声で怒鳴ってばかりいる偏ったイメージがあったけれど、決してそんなことはない学生思いの苦労人であることがわかりました。大八木監督ごめんなさい。

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オヤジのあくび631

萩本欽一「欽ちゃんの、ボクはボケない大学生。」を読む1

 


ボケないために大学進学を決めた欽ちゃん。老人と言われるより、年寄りでいたいと言う。年が寄って来るなら避けようもあると言うことらしい。元々幕府幹部に若年寄がいたように行政の重役の意味もあるしね。

さて授業。欽ちゃんはコメディアンだから笑いが取れると確信して失敗を演技する。だから自分が失敗しているのかどうかがよくわからない状態がとても不安だと言う。それが授業中の英語の指名読みだったのですね。失敗したくないから予習する。時には復習する。学校教育では「教室は失敗する所だ!」などと体裁のいいことを掲げながら、実は個々人の失敗回避の本能を利用して来たわけだ。

ところで欽ちゃんは、どこの学部に入ったかと言うと、これが駒澤大学の仏教学部なのですね。

欽ちゃんが前期試験のいくつかを受けなかった理由の中で語っている言葉。負けた悔しさを次に繋げるのではなく、やられる時は気持ちよく逃げて、大きな痛手を食わないうちに次に備える。よく知られたエピソードだけどテレビ初挑戦の頃、欽ちゃんは一旦浅草に戻って二郎さんと組んだコント55号として出直しているんですね。

 


明日の投稿に続きます。

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オヤジのあくび630

ちばてつやが語る「ちばてつや」を読む2

 


この本は年代別にちばさんが作品にまつわる思い出を振り返っていく形で構成されている。私にとって初期の貸本漫画時代や週刊誌に漫画を連載し始めた当時の漫画は、タイトルでしか知らない作品も多く、とても興味をもって読み進めることができた。

ところで不思議な話だが、来るべき大作を準備していたかのような作品がある。ベートーヴェンが第九交響曲を完成させる前に「合唱幻想曲」を書いているような例は、ちばさんにもある。「あしたのジョー」の前に「魚屋のチャンピオン」というボクシング漫画があるのだ。さらに「ハリスの旋風」に出てくる拳闘部。すでにイメージができていたのだろう。原作者として梶原一騎さんと組むことになった時、ちばさんはかなり困惑したようだ。

梶原一騎の描くリアルでシリアスな世界と、ちばてつやのおおらかな天然キャラとの落差は水と油ほどに違う。しかしその相乗作用から「あしたのジョー」が誕生したのだ。ちばさんは登場人物を大きく描いてしまうことがあるらしいが、力石徹がそうだった。しかしそれを逆手にとってジョーとの対戦に備えてバンタム級まで体重を落とす力石の減量地獄が描かれたのだ。ジョーは大人に近づくと共に身体が大きく描かれていて、読者も成長するから並行した描き方になっているが、おれは鉄兵では、逆に小さくなってしまったと言う、

また力石の死後ジョーが対戦相手の顔面を打てなくなってしまうのだがこの主人公がもがき苦しむ期間に、何と連載執筆中のちばさん自身も十二指腸潰瘍で手術を受け入院してしまう。そしてラストを飾る名場面。ジョーがホセ・メンドーサとの世界タイトル戦を終え白い灰となるシーン。ファンの一部にはジョーが死んでしまった説があるが、作者は燃え尽きて抜け殻になったジョーを描いたと語っている。

この時期「明るく元気に」がテーマのちば漫画も、梶原一騎の影響だろうか? 世の中の暗い場面に目を向けるようになり、スリを主人公にした「モサ」や殺人を犯す少年を描いた「餓鬼」を描く。個人的な思いとしては、ちばさんはやはり少年少女に愛される漫画家だと思う。だから大人向けコミックでもラブシーンはない。のたり松太郎でも向太陽でも主人公の子どものような眼が魅力なのだ。

最終章でプロとアマチュアの違いについて語っている。自分で描いて楽しむのがアマチュア。自分が楽しければいいと自己完結しているのだ。その楽しさを自分以外の人にどうすれば伝えられるか? 悩み苦しみ続けるのがプロ。そしてそれは漫画に限らず、合唱然り。他者に向けて発信するすべての表現に当てはまると感じました。

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