オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび810

宮沢賢治「学者アラムハラドの見た着物」を読む

 


アラムハラドは11人の子どもたちに次のように質問する。

「・・人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」

 


2人の子どもが答えた後、セララバアドが次のように答える。

 


小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたがすぐ落ちついて答えました。

「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

 


その後、一同は林に入っていき、雨が降り始めたところで、この未完の短編は途切れてしまう。したがってタイトルにある着物とは、何なのかも解き明かされない。


けれど残された僅かなセリフがひとを惹きつけ、この短編は今も読まれている。ほんとうにいいことが何だか、今もって人々はわからないままなのだから。

f:id:hoihoi1956:20260617042320j:image

オヤジのあくび809

松邨賀太「前田夕暮と秦野」を読む

 


地域の図書室に立ち寄る喜びは、このような本に出会うところにあると思う。

前田夕暮という歌人の名前は知っていても、彼が秦野市南矢名の出身であることを知っている人は少ないだろう。

著者が観光業を生業にしていたせいなのか、地元周辺の地理をとてもわかりやすく解説している。

教育熱心な土地に育ち、与謝野晶子の「みだれ髪」に啓発されて歌人としての夕暮の成長と活躍を追っている。

ボクは特に北原白秋との交流に注目したい。白秋に大いに刺激を受けたことが「詩歌」の復活に結びつくと考えて間違いないだろう。さらに夕暮の作風は自由律=内在律短歌へと進む。

秦野及びその周辺にゆかりのあると方には是非読んでいただきたい。けれどこの図書自体を探すのがちょっと大変かもしれない。

f:id:hoihoi1956:20260610032139j:image

オヤジのあくび808

大澤真幸「私の先生 出会いから問いが生まれる」を読む5

 


十人目 ベネディクト・アンダーソン

 


本書は、九人目以降ドストエフスキー、ベネディクト・アンダーソン、ハンナ・アーレント、マックス・ヴェーバー、ジャン・ジャック・ルソー、ヴァルター・ベンヤミン、ミヒャエル・エンデを取り上げているが、「想像の共同体」の著者であるベネディクト・アンダーソンの章について、書いてみたいと思った。

ベネディクト・アンダーソンは、ジャワでフィールドワークを展開した学者だ。そこでは資本主義的な合理主義的な「力」とは、異なる〈力〉が働いていて、本章では時代の転換期に現れるカリスマ的な指導者と関連付けて論じられている。

 


もし、カリスマが永続的・日常的な原理として常に活きており、社会の組織原理になっているとしたらどうだろうか。それこそ、〈力〉という観念そのものではないか。このような推論のもとに、さらに、アンダーソンは、呪術的宗教、宗教的合理化、世俗的合理化の間の歴史的・論理的な関係についての仮説を提起する。

 


今一度、国家の成り立ちとその組織原理を疑ってみることは、がんじがらめに資本主義の原理に絡み取られている私たちにとって、必要な作業かもしれない。

f:id:hoihoi1956:20260603054130j:image

オヤジのあくび807

大澤真幸「私の先生 出会いから問いが生まれる」を読む4

 


七人目 親鸞

 


あるとき弟子の唯円が、実は念仏していても喜びはなく、往生したい気持ちにもなれないと打ち明けると、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこゝろにてありけり」と答える。親鸞は、自分も唯円と同じだ、と答えたのだ。これは驚くべき回答だ。弟子が、教師に、普通だったら今さら質問できないような、基本中の基本のことを思い切って尋ねたところ、教師は、「お前もか、実は俺もわからないんだ」と回答されたようなものだからだ。

 


弱みをさらけ出したようなこのやり取りは、心理的な鎧で身構えて、子どもたちに接している教師の真逆であります。

 


この章のキーワードは「不信」。宗教を論じながら、信じ抜くとは何なのかを問うているのが重要だと思います。なぜならその問いの不足こそが、宗教に全財産を貢ぐ人々を再生産しているように感じるからです。

 


十字架の上のキリストは神に対して叫ぶ。なぜ自分を見捨てるのか?と。

神と人間という最大の差異は、神それ自身の内的な差異でもある。ということは、神は、何ものでもありえず、「無」であると言うほかないのではあるまいか。

 


さらにこの章では、人と人との関係性の中にこそキリストが宿っているのであり、親鸞の教えに対しても、共同体の再構築・超越性の脱構築という文脈で語られる。そこに法然上人との違いを見つけているのだ。

それは浄土宗・浄土真宗という派を超えて、広く世界が必要としているテーマだと思う。

 


八人目 織田信長

 


親鸞の次が、一向門徒を容赦なく虐殺した織田信長という並べ方に驚いてしまう。

まず前段で武士が天皇への求心力と遠心力のバランスの上に存在していたという「武士とは何だったか?」論を語り、織田信長がそれに当てはまらないと話す。

彼に続く覇者の秀吉、家康は権威としての天皇の求心力を利用した。しかし信長だけは自身の求心力の中に天皇を置こうとしたのである。ある意味そんな恐れ多いことを企てたのは、信長しかいない。

天皇を中心に据えた歴史が大きく針を振ろうとしていた時に、本能寺の変が起きたのであります。光秀にそこまでの歴史観があったかどうかはわからないけれど。

f:id:hoihoi1956:20260527053849j:image

オヤジのあくび806

大澤真幸「私の先生 出会いから問いが生まれる」を読む3

 


五人目 吉本隆明

 


吉本隆明の章は、マタイ福音の著者や、戦前の共産主義者の転向を例に、関係の絶対性が語られる。

 


一見思想を一貫して保持したかのように見える人々もまた転向したとされる根拠、それこそ「関係の絶対性」という視点の欠落にほかならない。彼らもまた、日本の現実という社会的な関係性の中に内在していて、そこから逃れられるはずがない。ほんとうは、関係は絶対的に彼らに取り憑いているはずだ。にもかかわらず、彼らは、その外部に超然としているかのように思想を語り、書いたのである。彼らがその「思想」を貫くことができたのは、その「思想」が、自分自身が内在している関係から遊離していたからである。そのような思想は「思想」に値しない。これが、吉本の考えではなかったか。

 


大澤真幸氏による読み解きは、「共同幻想論」を斜め読みするよりも、吉本隆明氏が思想の立ち位置としていたところへ迫っている気がします。

 


六人目 中上健次

中上健次について語る章は長い。大澤真幸による中上健次論の様相を呈している。

 


イシス編集学校による大澤真幸の世界史講義にベンヤミンの名前が出てきた。歴史の見方を反転させる、進歩史観とは真逆の視点が、この中上健次論の中でも引用される。

 


もう一つ、オリュウノオバをはじめとする語り手の存在を論じていることだ。物語世界全体を俯瞰する存在としての語り手は、中上健次の小説では絶対的な地位を与えられない。常に複眼的に主語がさまざまな立ち位置に入れ替わりながら物語が進むことに、大澤真幸は注目している。

これは語りの芸能に関わっているボクにとっても大事な話でして、琵琶が史実を叙事として語るわけを考えるきっかけになりそうだ。さらに琵琶物語が成功者・勝者の視点より敗者・滅びゆく存在にスポットを当てている謎も、少しわかって来るような気がする。

f:id:hoihoi1956:20260520053825j:image

オヤジのあくび805

大澤真幸「私の先生 出会いから問いが生まれる」を読む2

 


三人目 磯崎新

 


静岡市にある楕円堂の話。

何と、そこには舞台と観客席との空間的な区分がなく、両者が一体化しているのだ。観客が俳優と同じ平面で芝居を観ることになる。あるいは、観客が舞台にあがり芝居を観る、と言ってもよい。

 


ボクは琵琶を演奏しているのですが、楽器が携帯できるおかげで演奏の場を自在に選ぶことができます。自宅マンションの集会所・自治会館から能楽堂まで。楽器は座奏という制約がありますが、もっと工夫できそうな余地がありそうです。

 


四人目 中村哲

 


医療というのは、いわば、人生の非常事態(病)への対処だが、中村さんはそれ以前に、日常の生活の基盤を、つまり「毎日、仕事(農業)をして、仲間と一緒に食事をとること」という基盤を立て直すことを優先した。アフガニスタンでは、その日常が全体として非常事態へと転じてしまっていたからである。

 


中村哲さんのことは、ボクも報道や本で見聞きしている。本書では、なぜ中村哲さんにだけ可能だったのか? の答えを彼の二重性に求めている。

 


中村さんはすでにまったきアフガンであり、現地でともに苦しむ者だ。同時に中村さんは、アフガンから見ると、まったき異邦人で、外来者である。中村さんは、一人のアフガンになると同時に、日本人であるというアイデンティティをも手放さなかった。

 


中村哲さんから学ぶ点は本当に多い。

f:id:hoihoi1956:20260513052839j:image

オヤジのあくび804

大澤真幸「私の先生 出会いから問いが生まれる」を読む1

 


一人目 見田宗介=真木悠介

 


〈先生〉は「答え」をもっている人ではない。私にとって〈先生〉とは、逆に〈問い〉を誘発する人である。〈先生〉と話していると、あるいは〈先生〉が書いたものを読むと、次々と疑問が出てくる。〈先生〉と出会うと、すでに(私が)知っていた(と思っていた)ことも、問うべきことへと転換する。

 


ここで大澤真幸が言う先生とは、見田宗介(真木悠介)のことであります。ボクは教育学部社会学で社会学分属を選んだのも、見田宗介さんの投稿に刺激を受けてのことでした。丸山眞男荷物言えることかもしれないのですが、科学のようで哲学思想のような語り口で、曖昧模糊とした社会を読み解くスタイルとでも言えばいいのでしょうか?

 


大澤真幸氏の学生時代は、ボクの学生時代と時期が重なっていて、同じような時代の空気感を感じていたのかもしれません。

 


見田宗介の目指していたものについて、次のように書いている。

「人間の解放」は、「人類の幸福」と「世界の革命」の総合である。人間の解放とは、人類全体が幸福であるような世界へと、現状を変革することだ。

 


二人目 中井久夫

 


恥ずかしながら、本書を通じて初めて中井久夫さんのお名前を知った。

これまたスケールの大きな知的好奇心に導かれた方のようであり、今は、本書の中で大澤真幸氏が紹介している統合失調症の部分を通して、氏の仕事を覗くしかない。

 


寛解過程を中心に据えて理解した統合失調症からは、私たちは、ポジティヴな社会秩序のヴィジョンを導くことができるのではないか。「統合失調症」は、もっぱら否定や破壊へと向かうポテンシャルを含意しているのではない。統合失調症には、構築へと向かうポテンシャルがある。

 


大澤氏は、心の生毛を剃ることなく、社会復帰を図ることはできないか? と問いかける。そしてそれは中井久夫さんが診療が終了した事後こそ懇切丁寧な支援が必要であると説く話と重なっていく。

f:id:hoihoi1956:20260506030845j:image