オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび795

しんめいP「自分とか、ないから」を読む

 


断言できるのは、著者はファミチキが大好きなので、この本にはすぐファミチキの例えが出てきてしまう。ファミチキを食べながら深遠な東洋哲学に想いを馳せているのだ。

少し心配になるのは、修行中の僧侶とか、本書を手にしたらどう感じるだろうか?

ファミチキの次によく出てくるのが、著者がもぐりこむ「ふとん」。

チームプレイができない著者は、小学校でバスケの体験入部から追放され、中学では部活に入らず、会社をひっそりと辞めて、島の教育事業、R-1グランプリへのチャレンジも上手くいかなかった。そして「ふとん」にもぐりこむ。

 


しかし、なぜかそんな筆者の半生に、龍樹の説く「空」の思想が、「それでいい」と都合よく寄り添っている。

 


解説で鎌田先生が書いているが2章と4章は、しんめいさんらしいはっちゃけた表現が見られて楽しい。読者がもとめているのは、小難しい宗教の案内ではなくて等身大の今の生活者にフィットしたアイデアなのだ。

 


そこで第4章。禅思想を彩るスーパースターは、見た目が怖いから「ほぼヤクザ」扱い。

不立文字、つまり言葉は要らない禅思想を本の中で表現するために、真っ白なページが挿入されている。

そこまでやりますか? しんめいPさん!

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オヤジのあくび794

重松清「はじめての文学 重松清」を読む2

 


「かたつむり疾走」

時代設定的にはバブルが弾けて、勝ち組とか負け組とか、自己決定自己責任とか、イヤな感じがする言葉が撒き散らされていた時代の話。

ボクは、学校に勤務していて、職業的には勝ち組でも負け組でもない、けれど確実に職業的には信頼感を失っていく時代に身を置いていた。高収入であるとかその逆であるとか、いう物差しではなく、人が人に何が伝えられるのかを考え続ける仕事に身を置いていたことを、ボクは後悔していない。

さて物語に戻ると、親父が大企業からリストラされた浩樹。親が離婚し父とは音信不通の和美。この二人が高校生目線で幸せとは何かを問うている。

かたつむりとは、ホームレスのボブちゃん(本名不詳)のことで、和美が絡まれて警察沙汰になった時に、すごい速さで疾走していたことが作品のタイトルになっている。

ルールという言葉も出てくる。人に同情をかける行為や人が思い悩んでいるところに無遠慮に踏み込んでしまうことが、この作品上ではルール化され、禁じ手になっている。

だいぶ時代が変わり、「強く豊かな日本」になるのだそうだが、バブル前後の浮沈で学んだことは忘れないでいたいと思う。

 


「ライギョ」

いじめは一向になくならない。死者が出たことで、文科省の命令一下全国の学校で「先生方」が「いじめはダメ」と指導してもなくならない。

ちょっと変わった人がいて、ちょっかいを出しても反撃してこないとエスカレートしてしまうのだ。

この話のタカギくんのように。中1生を小5がからかうというのも如何なものかとは思うが、小5の中にも人間関係の強弱があって、タカギ2世にさせられそうな主人公は、けしかけてくる佐藤の悪ふざけを断れないのだ。

いじめって、ちょっとしたことで上下関係が生まれてしてしまう世界の産物なのだ。

しかもお互いに秘密厳守でなかなか愚痴を割らないので、大変なのだ。

 


さて、タカギくんがため池でカエルのおもちゃをエサ?に釣ろうとしているのが、ライギョ。主人公は佐藤にそそのかされて、石を池に投げ、よけたはずみでタカギくんは池に落ちてしまう。

主人公のお父さんもライギョを釣る人なので、ため池に放ち、それをタカギくんが釣ったことになっているというお話。

ある時ついにタカギくんがキレて喧嘩になり、怪我で入院するわけだが、話的には雷を呼ぶライギョ伝説と怒ったタカギくんを重ねているのだろう。

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オヤジのあくび793

重松清「はじめての文学 重松清」を読む1

 


「卒業ホームラン」

息子の小学校入学式と同時に、少年野球チームの監督になったお父さんの話。野球は9人、サッカーは11人、バスケットボールは5人と一度に出られる選手の数が決まっている。つまり10番目、11番目の選手は試合開始の時は控えなのだ。

こういう序列は音楽にもあって、オーケストラの弦楽器は指揮者に近いほど実力が上だ。ボクは序列がない合唱を続けてきたけれど、それでも技術系とか言って、大した力もないのに音楽を推進する立ち位置でやってきた。

スポーツでも勉強でも序列化はつきものだけど、それがモチベーションのアップにつながっているのだろうか?

この話に流れている通奏低音は「がんばれば、いいことがある」という言葉。

何のために頑張らなくっちゃいけないのか、学校に通わなくちゃいけないのかが、わからなくなっている子どもたちが増えている。

でも試合に出られなくても、ずっと野球を続けている息子のように、結果に結びつくとかじゃなくても、好きだったなら続けていい。たとえ評価してもらえなくてもそこに自分の居場所があるのなら。

 


「モッちん最後の一日」

望月くん。「モッちん」があだ名だった主人公が、両親が離婚して山口姓になる話。だから最後の一日なわけだ。

ボクは、長いこと教師をやっていたのだけど、40代後半あたりからは、新しい子どもたちを受け持つ時に、苗字とあだ名を擦り合わせて覚えるのが大変になってきていた。

子どもたちが呼び合っているあだ名と名簿上の名前が一致しないと関係性が進まないのだ。特に専科をやっていた頃は、入れ替わり立ち替わりで、合計200人くらいの子どもがやって来るので、四苦八苦していた。

物語は、離婚の理由とか友だちとの関係とかに、深く突っ込んでいかない。単に呼ばれ方が変わる主人公が挨拶回りをする様子と、父親と焼肉屋で再会する様子だけが少し描かれているだけなのだ。

主人公が感情を引きずらない男の子という設定だからこそ、最後の一日が湿っぽい感傷的な日になるのを防いでいる気がしました。

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オヤジのあくび792

村上春樹「はじめての文学 村上春樹」を読む2

 


「鉛筆削り」

この作品について何か書くことは、結構難しい。何せ見開き2ページしかないのだ。鉛筆削りにこだわる水道の修理屋さんの話。結果的に主人公は長年使っていた鉛筆削りを交換してしまうのだが、ボク自身にも小学生の頃から使っている鉛筆削りがあったっけなどと思い出しながら、あっという間に読み終えてしまった。

 


「タイム・マシーン」

「鉛筆削り」の続編。二篇をセットで読むべきかな? 今度は電気こたつをタイム・マシーンと言って、交換する話。

 


その後、しばらく見開き2ページのナンセンスというか、シュールな作品が続く。巻末の後付けには、こういう作品を書かずにいられなくなる時があり、僕(=村上春樹)という人間の避け難い一部なのだそうだ。

 


「緑色の獣」は、主婦、つまり女性が一人称で書かれ、庭の穴から這い出してきた緑色の獣を甚振る(いたぶる)話。作者の女性観が投影している気がする。

 


「沈黙」

この話は、ボクシングの経験がある大沢さんの話。そして彼が中高生だった頃の経験を語る独白によってできている。優等生の青木を快く思っていなかった大沢さんは、中二の頃、英語のテストで一番を取ったことをきっかけに、言いがかりをつけてきた青木を殴ってしまう。

それから数年、高三の時に同級生が自殺し、青木の陰謀によって容疑をかけられた大沢さんは警察に呼ばれてしまう。もちろん後にも先にも人を殴ったのは中二の一回きりなのだ。警察に呼び出されたことで大沢さんは、学校で皆から無視され続ける。

しかし、ある時地下鉄で乗り合わせた青木との睨み合いによって、ふと誇りを取り戻していく。ざっとこんな話だが、作者の意図に反して、同じように追い込まれた青少年によって読まれているのはよくわかる。村上春樹にもこんな話があったのだ。

 


「かえるくん、東京を救う」

多くの人々の死にかかわる重い素材に、何年もの間作家としてとりくんできた。そんな中で僕はこのようなひどく現実離れのした、ある意味で荒唐無稽なファンタジーを書かないわけにはいかなかったのだ。現実から目を背け、どこかに逃避するということが目的ではない。むしろ逆で今ここにある現実にはもっとふかくつつこんでいくためには、物語という通路を使って、このような心の「とくべつな領域」に下りていく必要がどうしてもあったのだ。それはかえるくんが実際に住んでいる領域であると村上春樹は語る。

かえるくんは片桐さんと協働することで、みみずくんが引き起こす大地震から東京を救う。この話は新海監督の「すずめの戸締まり」にどこか似ている気がしました。

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オヤジのあくび791

村上春樹「はじめての文学 村上春樹」を読む1

 


シドニーのグリーンストリート」

村上春樹早稲田大学の演劇科出身だ。ふとこの短編を脚色できるだろうかと考えてみた。もちろん不条理劇になるだろうが、先日の投稿に含まれている「踊る小人」と同様、面白いやり取りができそうな気がしてきた。

羊男と羊博士のいざこざを巡って、私立探偵のボクとピザスタンドの「ちゃーりー」が繰り広げる話。

意識下にフロイトの願望憎悪が潜んでいることを指摘することで話しが解決する。ぼくにはこの短い作品に青春の爽やかな風が吹き抜けているような気がする。

 


カンガルー日和

僕と彼女が動物園にカンガルーの赤ちゃんを見に行く話。赤ちゃんが生まれたニュースが流れてから一か月くらい経ってしまった。だから赤ちゃんはすでにほどほどに大きい。お母さんの袋に入れるか、心配するが無事にそのシーンを見られたという話。

それだけのことだが、村上春樹特有の乾いた空気と軽やかなテンポ感は、この初期作品の中にも流れている。

 


「鏡」

これは中学校の夜警をしていた時の怖かった体験話。実はボクも若い頃用務員さんに頼まれて、学校にある泊まった経験がある。夜の学校っていうのは、予告なしにポンプが動いたり、音楽室の肖像画やピアノをはじめとして怪談話の宝庫だから、怖いと思い始めたら怖い。

本編は、ないはずの鏡に自分が映っていて恐ろしかったという話。村上作品だから湿っぽいおどろおどろしい感じがしない。

 


「とんがり焼きの盛衰」

本物の村上春樹がお菓子づくりが好きなのか、ボクは知らない。主人公が200万円につられて「とんがり焼き」をつくる話。もちろん寓話として書かれたのだろう。

 


「かいつぶり」

採用面接を受けようと扉に辿り着くが、合言葉を言わなくっちゃいけない。主人公は合言葉なんてい聞いていないので、思いついた言葉が「かいつぶり」。

この話も象徴的な人生のある場面を投影しているかのようだ。

 


「踊る小人」

夢に出てくる小人が身体に入って、結局のところは乗っ取られてしまう話。

夢には、目覚めた時にいつまでも見ていたかった夢と夢から抜け出すことができてよかったと思う悪夢があるが、この話の夢はやはり後者に近い。

この話のネタになったような夢を見たのだろうが、その細部を綴っていくうちにこの物語ができたのだろうか。非現実的で幻想的な夢世界を描くことにかけて、やはり著者は一流だと思う。


次回へ続く!

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オヤジのあくび790

斎藤孝「20歳の自分に教えたい 本物の教養」を読む

 


初めの方に公平・平等を旨とする原始共産制の時代は、うつ病がなかったというくだりが出てきます。競走社会で日々資産形成に追い立てられている現代社会が人々のメンタルを追い込んでいるのでしょうか?

 


フランクリンの言葉「時間は貨幣」「信用は貨幣」という言葉が出てきます。たしかに信用、大事っすね。

 


哲学は、ニュースの対極。「そもそも」という根本的なところに立ち返って考えるのが、哲学・思想。その中で西田幾多郎純粋経験にふれた箇所がある。日本語では主語は省かれることが多いけど、それを純粋経験と関連づけて述べている。

 


歴史については世界史を学ぶ大切さを力説している。高校生はもちろん大人も世界史を学ぶべきだと。ボク自身、現在一対一で高校2年生に世界史を教えている。ボクが高校生の頃は山川の教科書に載っていなかった(授業中ボケーっとしていたのもしれないが)内容の学び直しを含めて、とても勉強になっている。ラス・カサスが出てきますが、ラテンアメリカ歴史学習で抑えたい人だと感じました。世界史の教訓に学ぶことで、現在の課題に向き合えるような気さえするのです。

 


芸術の章では、メキシコの画家フリーダ・カーロを取り上げでいる。今やスマホで簡単に自撮りができる時代になったが、だからこそ彼女が自画像製作にどんなに思いを込めたのか、想像を膨らませてみたい。

 


おじさん的にまとめてしまうと、役にたつとか得をするという目先の動機ではなくて、教養っていうのは、もっと生き方とか人生の過ごし方に近いものなんじゃないかな? 

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オヤジのあくび789

上田正仁「『考える力』の鍛え方」を読む2

 


話は解く力に進み、大学入試の例が出てくる。

目標が、W大の世界史ならば・・

①類型化 過去問分析 傾向調査

②要素化 頻出問題の分類、典型問題と類似問題のリストアップ

③リストアップした問題を解く

今現在来年の大学受験を目標にしている生徒と世界史を学習していて、いよいよ受験対策という段階に入るので、大いに参考になりそうだ。

こんな一文が出てくる。

インターネットで検索して「分かったようなつもり」で済ませることが増えている情報化社会の現代だからこそ、私たちはこうした、まだ誰も答えたことがない問題に本気で取り組むべきです。

そして著者は諦めない人間力の大切さを説く。本書で最も伝えたかったことだろう。

最後の方で子どもの「どうして」への対応が出てくる。あっさり答えを伝えないで、子どもといっしょに考えて、試して、確かめてみることの大切さが書かれている。私たちは、いわゆる中学受験マニュアルにまみれながら進学塾に通い続ける子どもたちから「どうして」を奪っているのではなかろうか?

すでにAIが授業や学習をサポートするようになった現在、私たちは子どもたちからどうやって問いを引き出そうとしているのか?

その問いにどのように寄り添うことができるのか? 今全ての教師に投げかけらている課題である気がします。

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