オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび620

大野一雄「舞踏譜」を読む

 


何だかよくわからないから読み始めたのに、読むほどに余計わからなくなってしまうようだ。例えれば音楽を言葉で言い換えることが結局は不可能なように、舞踏も言葉に置き換えることが困難なようだ。生命、宇宙、胎児、様々な言葉で「感じていたい根幹」を書いている。しかし、日常が具体表現の世界に浸かっている身としては、なかなか理解が進まない。

思うに、この書は大野一雄氏の舞踏表現に接した方に対して「いったい、あの動きは何をイメージして表現していたのか?」を本人が語ったものなのだ。だから実際に舞台を鑑賞する方が先立たないと解説だけ読んでも分かりにくい。

一般に演劇なら脚本を、音楽なら楽譜を読めば、実際の表現に接していなくても、およその全体像は掴めるものだ。また逆に脚本や楽譜を手がかりにして表現をつくりあげることができる。ところが、この本に示されている舞踏指示書では、舞台上の位置や動く方向が示されているだけで、実際に本人がどのように身体を動かすのか? 書かれていない。

だからこそ表現づくりに臨んで本人が思い描いていたことが本になったのだろう。

ちょっと拝見しただけでは、よくわからないジャンルは他にもある。ボクにとっては美術の抽象表現など。

受け止め方は鑑賞者次第ということか? かく言うボクの琵琶の表現だって、よくわからない代物かもしれない。けれどわからなくたってそれで大丈夫な場合ともう少しわかりやすく説明した方がいい場合を見極めておきたいと感じました。

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オヤジのあくび619

森直実大道芸人」を読む

 


凡人の予想をはるかに上回る凄い芸人、野毛大道芸で活躍したパフォーマーが次から次へと登場する。しかも彼らの紹介文を執筆しているのは、名のある作家たちなのだ。一人ひとりの列伝の中に命を張った芸に賭ける生き様が見て取れる。綱渡りをしながらの火吹きなど、一歩間違えば即救急車なのだ。

どんな芸人さんが出ているかって? 三味線の伊藤多喜雄さん。中学生に「南中ソーラン」の歌手と言えば、どこでも通じる人だ。帽子芸の早野凡平さん。秒刻みで仕切られているテレビより大道芸の空気感ががお好きらしい。「落ちぶれて大道芸に出ている」と呟いていた観客がいたそうだが、それは違うだろう。大道芸のライブ感はテレビに勝るのだ(想像だけど)。この本は1997年の出版だから、往年野毛大道芸を彩ったスターにも鬼籍にはいられた方がいらっしゃる。凡平さんのことは、この本の中で亡くなられた時の様子が紹介されている。

ボクがむごん劇にお邪魔した後、しばらくして野毛大道芸が始まり、マイムの師匠であるイクオ三橋氏は火吹き芸の最中顔面に大火傷を負ってしまう。この事故の後はプロデュース業に徹することになったと本書には書かれている。他の芸も同様に絶えず危険と隣り合わせの表現が多い。それでも芸人は大道芸に自分の生き場所を求めて集ってくる。勤め人の安定した仕事や収入と、大道芸人はおよそ真反対の生き方をしている。もうその世界から抜け出せなくなってしまったかのように。

さて安定した生活なのか? よくわからないが芥川賞作家で大学教授の荻野アンナ氏は、野毛大道芸に登場すると、怪しげな演劇の役者に変身する。「豪華絢爛、花のウイストサイド一本刀土俵入り物語」とか「花の次郎長 野毛山水滸伝」などで、後者にはマリリン・モンロー役で出演して、スカートを捲り上げている時に、観客の中にゼミの学生がいたと言う。

1994年にはクラリネット演奏で出演した筒井康隆(自作曲 美藝公等を演奏)に、山下洋輔が飛び入りで借り物のピアニカを合わせた奇跡のようなシーンがあったと言う。

生きていることを深く実感する方法は、他に幾つもあるだろう。けれど大道芸の魅力に取り憑かれた人は、もう二度と沼から抜け出せない。本書に登場する芸人さんたちは、その破天荒な生き様を通して語りかけてくるのだ「面白いぜ!」と。

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オヤジのあくび618

畑中圭一「紙芝居の歴史を生きる人たち」を読む2

 


画家の佐藤正士良氏の聞き書きでは、氏が戦前東宝映画で働いていた話が出てきて、遠近法やモンタージュなど映画から影響を受けた技法が紙芝居の絵にも活かされていると語る。話の中には武部本一郎の名前も出てきて、錚々たるメンバーが紙芝居に関わっていた時代があったことがわかる。映画になぞらえるなら、演者は一人で演出と俳優をこなしているわけで、こんなに演じる甲斐があり、独自の劇空間をアドリブも含めて創造できる表現が今や風前の灯なのは実にもったいない。

しかしながら、仕事として生活を支えるとなると様々な課題がありそう。子どもが学校から帰ってくるのが、午後3時。その時刻に団地の広場やお寺神社の境内を借りて演じるとして、一体何人集まるのか? 雨が降っていたら仕事にならないし、売り物の飴も駄菓子屋さんが競争相手なので「紙芝居」を選んでもらえる魅力が必要でしょう。ボランティアではあるけれど、ボクのように学校の読み聞かせで紙芝居を演じるくらいしか生き残るスペースが残されていないのかもしれません。

前回の投稿で富田博之氏の「戦争中の紙芝居活動について」に補足したい。学校で演じられる教育紙芝居と近所の広場で演じられる街頭紙芝居があって、鈴木常勝氏によると街頭紙芝居を俗悪なものと見下す傾向が合ったという。その一方で教育紙芝居は戦争遂行に利用され、その絵に被害者視点はなかったという。富田氏が批判していたのは教育紙芝居が当時の国策に都合よく利用されていた事実について自己批判がない点であろう。鈴木常勝氏は、学校を離れた教育学や子ども文化論が成立しにくい状況も指摘する。話は逸れるけど、そんなことだから不登校が増加する現在、学校以外からの視点が持てないのだろう。

容易に推測できるが、高度経済成長・テレビの普及が紙芝居の衰退と関連していることは間違いないだろう。紙芝居の時間空間は「チロリン村」や「ひょっこりひょうたん島」に取って代わられたのであります。やがてファミコンが、携帯型ゲーム機が登場して、子どもたちはテレビにさえ見向きもしなくなる。広場でいっしょに紙芝居を見ていた仲間は、ゲーム機の通信機能に変わってしまったのだ。本書では共有していた三間=時間空間仲間の変化と論じている。

昭和5年に生まれた紙芝居の歴史は、100年足らず。栄枯盛衰は事の常だが、このまま歴史の襞の中に消えていくのは惜しい。実は手作り紙芝居コンクールという催しがあり、ボクの地元横浜市でも開催されている。紙芝居の灯を受け継ごうとする動きは、続いているのです。

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オヤジのあくび617

畑中圭一「紙芝居の歴史を生きる人たち」を読む1

 


ボクは20代の頃、児童演劇評論家 富田博之氏のところで児童劇用の脚本を勉強していた時代があるのですが、その頃紙芝居について富田氏が「戦争中の活動について、戦後きちんとした総括がなされていない」と発言されていたことを覚えています。

まず紙芝居と一口に言っても、色々ござんす。この本で取り上げているのは、路上や広場で子どもたちに水飴を売りながら演じた街頭紙芝居。もはや朧げな記憶しかないけれど、ボクより少し上の世代であれば覚えていらっしゃる方もいるでしょう。

紙芝居用のケースに入れて子どもたちの目を集中させて演じる紙芝居の前は、立ち絵。今のペープサート劇のような方式で演じていたらしい。「はじめに」で書かれていますが、路上という解放区(その分巡査との軋轢はあったようですが)。水戸黄門のように必ず「正義が勝つ」パターン。お客さん=子どもたちとのやりとりから生まれる双方向性。これらが紙芝居の魅力を形成していたのでしょう。

本職の大部分は、演じていた方ご本人からの聞き書きで、当時の様子がよくわかります。草創期の紙芝居屋さん森下氏によると職人でも一日働いて一円稼ぐのが大変だった昭和初期に紙芝居屋は三円〜五円稼いだそうです。

それで紙芝居屋が増えるわけです。

紙芝居と言えば「黄金バット」、「黄金バット」と言えば加太こうじ・・ですが、もちろんその他にも多くの子どもたちに親しまれた名作は数多く、中でも「チョンちゃん」は二十五年にわたって描き続けられ、総数五千二百巻に及んだそうです。凄い!

 


つづきは、また明日

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オヤジのあくび616

菊池清麿「評伝 服部良一」を読む3

 


朝ドラのタイトルにもなっている「ブギウギ」のリズムは、戦中上海に渡っていた服部良一李香蘭のステージですでに使っていた。まるで戦後の音楽を預言するかのように。

そして笠置シヅ子がステージ狭しと踊り歌った「東京ブギウギ」。ボクはいわゆる「鉄」なのだけど、最近の電車は音が静かで揺れが少ないことに感心しています。特に車内で合唱団の楽譜を見たい時は、モーター音がないサハに乗る。東京ブギウギの楽想が思いついたのは、中央線の電車内で吊り革につかまっていた時だそうだ。車輪が線路の継ぎ目で奏でるリズムが名曲に変化していくのだから、いやはや大したものであります。ちなみに作詞者鈴木勝さんは、あの仏教学者鈴木大拙先生の息子さん!

「銀座のカンカン娘」「青い山脈」、藤山一郎に提供した名曲の数々。そして笠置シヅ子とは「買い物ブギ」などのブギシリーズ。数多くのヒット曲を飛ばします。

しかし、やがていわゆる歌謡曲とジャズをベースにした服部良一の音楽は乖離していく。服部メロディーの良さを受け継いでいったのは、歌謡曲とは一線を画していたロカビリー歌手たちであった。

国内での活躍が目立たない昭和30年代。その頃服部良一は、香港映画界で仕事をしていました。歌謡界のヒットメーカーから距離を置いた彼は、やがて恩師メッテルの教えに戻り、カンタータ交響詩の作曲に創作の軸足を移していくのだ。

最後に本書の著者菊池清麿氏についてふれたい。彼は本書の他に、藤山一郎古賀政男東海林太郎中山晋平佐藤千夜子二村定一・阿部武雄・古関裕而について伝記を著している。音楽に対する凄まじいばかりの関心がなせる仕事であろう。

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オヤジのあくび615

菊池清麿「評伝 服部良一」を読む2

 


戦前の良一作品を代表する曲が、昭和12年淡谷のり子による「別れのブルース」。低いGから歌い出すため、本来コロラトゥーラソプラノの淡谷のりこは一晩中タバコを吹かして低く魂がこもった声が出るしたという。ボクサーの減量を思わせるような凄まじいエピソードです。

本書は副題が「日本のジャズ&ポップス史」とされていて、服部良一さんの人生を追いかけた文章の中に往年の名プレーヤーが登場する。その一人がトランペッターの南里文夫さん。横浜元町商店街から代官坂を上がると南里文夫さんが活躍していたダンスホール「クリフサイド」がそびえている。ボクはこの坂の先にある元街小学校に勤めていたことがあるのだけど、元街小のスクールソングをいくつも作ってくださった泰地さんが南里文夫のバンドでサックスを担当していた方。このクリフサイドで演奏されていたという話をふと思い出しました。

思い出話をもう一つ。およそロックは嫌いだった亡き父が、生前なぜかジャズには詳しかった。この本を読んでジャズのリズムに日本中が熱狂していた時代があったこと、そしてその時代が父の青春時代と被っていることがよくわかりました。

寄り道話をやめて服部良一の戦中時代に戻そう。コロンビアの慰問団の一員として上海に赴く。当時の上海は、舞台や映画でお馴染みの「上海バンスキング」の世界。この頃、李香蘭に「蘇州夜曲」を提供しています。中国の情景がイメージされる名曲ですね。

戦中のエピソードとして作曲R.ハッターという名前。誰のことやらわからないこの名前は戦中「軟弱な歌詞!」による曲が発禁処分となり、日米開戦前、英語の歌詞はまだOKであった時代に服部良一が「ラブズゴーン」などの曲で使っていた別名であります。何と戦後リバイバルで出した「夢去りぬ」が盗作ではないか? と話題になったことがあるそうな。同一人物なのに・・・。

 


明日の投稿に続きます。

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オヤジのあくび614

菊池清麿「評伝 服部良一」を読む1

 


朝ドラで「梅丸少女歌劇団」が華麗なダンスを披露していたように、大阪は今も昔とエンターテイメントの街だと思います。日本初のジャズバンドは、井田一郎さんによるラフィングスターズで、大阪・神戸にジャズの音色が響きます。服部良一さんの音楽人生の振り出しは、大正後期に活動していた出雲屋少年音楽隊。ここでサクソフォンファミリーのリーダーとして活躍します。やがてロシアから招かれたメッテルに大阪フィルで出会う。管楽器の技量を見込まれてクラシックのオーケストラでも演奏していたのだ。メッテルにはリムスキー・コルサコフ音楽理論を学ぶ。好対照に見えるけど、同門に指揮者の朝比奈隆さんがいる。

クラシックとジャズとでは、奏者に求められる音色が違う気がします。曲に合わせて吹き分けていたのでしょうか? 

レコード業界に関わり始めた頃、大きな影響を受けることになる人が、鳥取春陽。大阪時代の良一は春陽の曲を編曲していました。現在では顧みられることが少ない作曲家ですが、彼は昭和歌謡曲の黎明期を切り拓いた人です。

朝ドラでは、笠置シヅ子が歌ったブギウギシリーズが、服部良一の代表的な仕事として取り上げられている。けれどもそれは主に戦後の話でして、戦前戦中もジャズをベースにしたヒット曲を出している。代表曲がジャズコーラスで歌われた「山寺の和尚さん」。ボクもこの曲は大好きで、港南台アカペラシンガーズでも初期の頃から歌い続けている曲です。

原曲は手毬唄なのですが、リズム感が強調されジャズのフィーリングと日本語が見事に一体化している名曲だと感じています。

 


明日の投稿に続きます。

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