今、港南台アカペラシンガーズに元教え子が参加しているのだけど、小学校の頃合唱クラブ以外に演劇部クラブでも私が担当だったと言う。そうだったっけ? 今は遠ざかっているけれど演劇こそは、自己表現の最も有効な手段だと考えています。
さて本は「児童劇団ともだち」に入った頃の話に戻り、水谷八重子のセリフから「演技というものは、高い技巧を得れば、作品から独立して人心を掴み得る」を考え始め「ずば抜けた歌唱力が、曲の良し悪しに関わらず人心を掴むことがあり得る」と言う。その上で演技を際立たせるのが名作とは限らない、演技を作品の部品の位置にとどめてしまうより、むしろ俳優の個性やスター性を頼りにする通俗的な作品の方が演技を発揮することができる。超絶技巧とそれを発揮する適当な作品を得て拍手喝采を浴びることに憧れつつも、通俗的な作品は物足りなかった、その矛盾を克服できずによじれて不良化して果てたと舞台俳優としての一生を振り返りながら語っている。俯瞰すればクラシック音楽至上主義の音楽にも、似たようなことが当てはまりそうな気がする。
舞台生活の思い出を読みながら、白木実や「花はおそかった」の美樹克彦が登場する。白木について子どもだと勘違いしていた話や美樹克彦は子役の目方誠で共演した話が出てくる。エノケンとの楽屋話が出てきて、一人息子を亡くした楽屋に仏壇が持ち込まれていた話や著者の宿題が進まず母親に叱責されているところをエノケンが助けてくれたエピソードが出てくる。
容易に想像できるのは、2011年に書かれ当時すでに還暦を過ぎていた著者が、50年以上前の記憶を辿る難しさである。そこでインターネットを使って記憶を補強していることがよくわかる。それでも文字に置き換わった事実からはその時の微妙な心理まではわからない。ましてや子役という稀な環境の中で本人が感じていた気持ちの動きまでは読み取れない。本書の楽しさは、調べればわかることを突き抜けた中山千夏の自叙伝的部分にあるのです。