オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび238

河野裕子「桜花の記憶」を読む。

 


心の微妙な揺れや動きをキャッチしよう! これは願望に過ぎず、なかなか上手くは捕まえられない。自分自身で自分の心を感じることは予想以上に難しいのだ。

エッセイ集だが、作者の自然体な息遣いが伝わってくる。河野裕子は、隠したって仕方がないものは隠さないし、虚飾とか自分を金縛りにしてしまう想念からは遠いところに身を置いていた人だとわかる。

幽霊について、見えるものにだけ見える裂け目を用意していると書いている。私は今私がたどり着いた時間空間はたまたまハマってしまった路線に過ぎず、例えばノストラダムス路線の未来にいきていた人々は、やはり1999年にとんでもない災禍に襲われていたのではないか? などと、非科学的な妄想に耽ることがあり、河野裕子の感じ方が面白かった。

蛍と蝉という一文が出てくる。彼女は、生と死を絶えず体のどこかで意識しており、この生の短い二つの生き物が生死を見つめる短歌のタグとして、登場していたことが語られる。いつも何処かで蝉の鳴き声が聞こえていた・・という風に。多くの人も生と死を鋭い感覚を若い時代に有するのだろうが、それを風化摩耗させない人は稀有である。

私も子どもの頃から運動が不得手であり、その部分では作者の劣等感や自意識が勝手にわかるような気がしている。ところがある日30歳を過ぎた作者はプールで身体が浮く経験をする。そして水泳を習い始める。その中で自意識が希釈すると書いている。そうか、希釈かぁ! 成長するとか変容するとは、そういうことなのかもしれない。