オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

鈴木大拙「日本的霊性」を読む

先日読んだ寺島実郎氏の著作に刺激され、無分別の分別、主客未分化を解く手がかり?を求めて、「日本的霊性」を読み始めてみました。しかし、読み進めるほどに本書が、表層的知的な理解をどこまでも頑なに阻んでいるのかが、伝わってきます。いわゆる普通の学術書的な読み方が通じないのです。自分自身の内奥をもう一度照らし直しながら、少しずつ言葉を手繰っていくと言えばよいのでしょうか?
大拙師によれば、平安朝以前の仏教は、単に学問的知識的に伝承されたものであり、生活する人々の霊性を呼び覚ますものではなく、反省や否定のないところには、霊性はないと断じています。平安朝末期の源平の戦いを始めとする「死」と向き合う体験を通して、つまり鎌倉時代にして初めて、日本的霊性が経験されたと言うのです。それは貴族や南都北嶺の僧のための教えではなく、愚痴な人々に語りかける大地に根ざした教えであると。
そして浄土宗系の法然上人と親鸞上人が気づき、教え始めた「南無阿弥陀仏」を唱えることにより、不安や矛盾が念仏により一つになることを説くのです。例えば、人は死への不安から逃れることはできません。しかし、死を死としてとらえなければ、現生に今あること自体が、すでに往生であり、極楽であるとすれば、意識や分別を超えられると。
ちょっと要約が過ぎ、せっかく大拙師がていねいに語っているところを、上手く表すことができない自分の筆力が情けない。ただ、南無阿弥陀仏と、ニーチェ永劫回帰説で語った「これが生だったのか!然り。それならもう一度‼」はどこか相通じるものを感じています。そもそも「ツァラトゥストラ」という世界を善と悪の葛藤ととらえた宗教者が、主著のタイトルになっていることも十分に暗示的ですが。
本書は、妙好人として、赤尾道宗と浅原才市を終章で取り上げているが、この二人の生き様を通して、日本的霊性を自覚した生き方の具体を示しているようである。世界的な規模で、一方による善悪の押し付けが戦争を招き、人々が日々不安におののく生活を送る中で、先の戦時中に書かれた本書は、日本が仏教徒としての立ち位置を明らかに世界に示し得る名著中の名著であろう。