オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

多くの人々に必要とされている人3

天皇陛下
日の丸を手に、大声で天皇陛下万歳!と叫ぶほどの皇室崇拝者ではないし、いわゆる国体護持とやらに対して、頑なな意見を持っているわけでもないのですが…。
かなり恐れ多いが、先日の即位の礼に対して、日本人が示した態度を見てそう思う。個人的には先日大嘗宮を見学に行ってきた。乾通りが通れる初日と重なり、大勢の人が詰めかけていたけれど、同時に皇室行事がこれだけの人々の関心を集めていることに、改めて皇室の存在が日本人の心のどこかを照らし続けているような気がした。
政治家、とりわけ総理大臣が情けない時、そうだ!日本には天皇陛下がいらっしゃるじゃないか!と日本人の心の支えになって下さるとても大切な方だと思います。もちろん陛下は政治的な発言を禁じられているのだけど、終戦直前の御前会議で昭和天皇が、外務大臣の意向を支持しなかったとしたら、ポツダム宣言はすんなり受諾されたのか?もっと早くに聖断を下せばよかったじゃないか!という考えも、もちろんあるだろう。でもこの時の天皇の発言が歴史を動かしたのは間違いないことだ。
また戦後GHQ天皇の処遇について、あれやこれや考えあぐねた末、結局象徴天皇制に落ち着いたのはなぜか?今やすっかり定着している感のある象徴天皇制だが、私はその後75年近い歴史を振り返って、賢明な選択だったと思う。

多くの人々に必要とされている人2

第二第三のグレタさん
グレタさんは、スエーデンの環境運動家。16歳。気候変動を食い止めるため、文字通り体を張って世界中にメッセージを発信している。まだ十代の娘さんに過ぎない彼女の行動が、なぜ世界中の人々の共感を呼ぶのか?
私は60代のオヤジだが、彼女の考えや行動にこそ、未来の希望が垣間見える。今やらなければ間に合わないことが地球上には幾つもあるけれど、それら一つひとつを解決していかなければ、人類に未来はない。彼女が踏み出した一歩に続いて、第二第三のグレタさんが若者たちの間から登場するのを期待したい。
それは気候変動に限った話ではない。マララさんが訴え続けている平和、貧困の問題もそうだ。そして何も世界中に発信するなど大げさでなくてもいいのだ。まず自分の身の回り、足元からできることを見つけよう!遅ればせながら、60代のオヤジもできることからごいっしょに。

多くの人々に必要とされている人1

必要とされていない人なんてどこにもいない。
地球上の人々全てが、必要とされている人なはずだ。
ただ、家族、友人、職場と自分が必要とされている場面や人を数え始めれば、
そんなに巨大な数にはならないだろう。きっと。
けれど、世界にはとてつもなく大勢の人が、その人自身をその人の言葉をその人の表情を必要としている人がいる。恐れ多いが宗教指導者は皆そうだったろうし、本当に偉大な政治家もそうだ。
さて、現代に於いて、それは誰か?

多くの人々に必要とされている人1
ローマ教皇
大変残念なことだが、今の政治家に世界平和を実現する力がない。そこでカトリック信者ならずとも、多くの人々が教皇が発信するメッセージに期待を寄せる。

フランシスコ教皇のスピーチ内容

人やコミュニティ、そして全社会が、表面上は発展していたとしても、内側では、疲弊し、本物の命や生きる力を失い、中身の空っぽな人形のようになっている。(中略)笑い方を忘れた人、遊ぶことのない人、不思議さも驚きも感じない人がいる。まるでゾンビのようで、彼らの心臓は鼓動を止めている。なぜならそれは、誰かと人生を祝い合うことができないからだ。
もし、あなたが誰かと祝い合うことができたなら、それは幸せであり、実りある人生となるだろう。一体、何人の人が、物質的には恵まれていても、例えようのないほどの孤独の奴隷になっているだろうか。繁栄しながらも、誰が誰だかわからないこの社会において、老いも若きも数多くの人を苦しめている孤独に私は思いをはせる。最も貧しい人に尽くしたマザー・テレサがかつて、予言的なことを言った。「孤独と誰からも愛されていないという感覚は最も残酷な形の貧困である」と。

「何のために生きるのか」ではなく、「誰のために生きるのか」
自分たちに聞いてみよう。「私にとって、最悪な貧困とは何か?」「最もいい貧困とは何か?」もし、私たちが正直であるならば、わかるはずだ。最悪な貧困とは孤独であり、愛されていないという感覚であると。この精神的貧困に立ち向かうのは、私たちに求められる責務である。そして、そこに、若い人が果たすべき役割がある。私たちの選択肢、優先順位についての考え方を変えていく必要があるからだ。
それはつまり、私たちにとって最も大切なことは、何を持っているか、何を得られるか、ではなく、誰と(人生を)共有できるかということなのだということに気づくことだ。「何のために生きるのか」ではなく、「誰のために生きるのか」にフォーカスすべきなのだ。自分に問いなさい。「私は何のために生きるのか」ではなく、「誰のために生きるのか」「私は誰と人生を共有するのか」を。
モノも重要だが、人(との関係性)は欠かせない。人なしでは私たちは人間らしさを失い、顔を失い、名前を失う。私たちは単なる物体と化してしまう。私たちは物体ではない。人なのだ。シラ書*は言う。「信頼できる友人は堅固なシェルター(避難所)である。見つけた人は宝を見つけたようなものである」。だから「私は誰のために生きるのか」を問い続けなければならないのだ。(中略)
カトリック教会において旧約聖書にあたる書物
「私たちは『魂のセルフィー』を撮ることはできない」
自分の姿を鏡で見ていても、成長し、自分のアイデンティティや良さ、内面の美しさを発見することはできない。われわれはあらゆる種類のガジェット(道具)を発明したが、「魂のセルフィー」を撮ることはできない。なぜなら、幸せになるためには、私たちはほかの誰かに自分の写真を撮ってくれ、と頼む必要があるからだ。私たちは自分の殻から抜け出て、他人に心を向けなければならない。特に助けが必要な人に。自分の姿にばかりとらわれないことだ。鏡の中の自分を見つめていれば、鏡は壊れてしまうのだ。

(中略)賢人はこう言った。知恵を蓄えるカギは正しい答えを見つけることではない。尋ねるべき正しい質問を見つけることだ。誰もが、「どう答えるべきかをわかっているだろうか」「正しい答え方ができるだろうか」を考えるべきだ。そして、その後には、「私は正しい質問の仕方を知っているだろうか」を問わなければならない。正しい答えで、試験は受かるかもしれないが、正しい質問なしで人生の試験に受かることはできないのである。(中略)私はあなたのために祈りましょう。あなたが正しい質問をし、鏡を忘れ、相手の目をのぞき込むことができるような精神的英知を得て、成長していけるようにと。

多くの人の心にストレートに届く言葉は、教皇様だからこそ届くのか?教皇様だからこそ、語れるのか?たしかに私が同じことを誰かに話しても伝わり方は全然違うだろう。
教皇という立場を2020年を迎えようとしている今も人々は必要としているのだ。

幸せはお金だけじゃ買えないって!5

5.等身大で行こう
芥川龍之介杜子春は、主人公が放蕩生活に明け暮れた末、最後に「お母さん」の言葉を発して、まっとうな生活に戻っていく話だが、現代の文明社会を享受している 情けない現代人の鏡のようでもある。(現代人の方は真人間に戻れるか?怪しい)
等身大でいいのだ。ただ自分の身の丈が所詮どれくらいのものなのか?がわかるまでにとても長い時間と経験が必要になるだけで。古代ギリシャエピクロスが説いた快楽とかアタラクシアとは、そういうことじゃないのだろうか?

幸せはお金だけじゃ買えないって!4

4,ひがみじゃないよ
自家用ヘリや高級車を乗り回すとか、大豪邸で余暇を過ごすとかの経験は、おそらく一生できないだろう。けれど負け惜しみじゃなく、自分が最大限の価値を見出せることに没頭していることに、誰が口を挟めるだろう?幸せの価値は自分自身が決めること。人との比較で優劣が決まるわけではない。もし比較が可能であるなら、それは誰かに操作された幸せである場合だろう。流行とかブームとかに踊らされて。それが幸せだと勘違いしている御仁がいたら、早く目をさますことをお勧めしたい。今を去る30年前、バブル全盛期には、勘違い人間が我が国にも増殖していたのだから。

幸せはお金だけじゃ買えないって!3

3.転機を捉えて始められること
フル稼働で働いている時には、どう足掻いてみても確保できなかった時間。それがセミリタイア後には確保できる。新しいことを始める絶好のチャンスなのだ。
私は、洋楽であるコーラスの対局にある薩摩琵琶を始めた。楽譜はなく口伝。音律も違う。響かせる共鳴発声ではなく、味のある日本語の語り。何よりも琵琶という古代から伝わる楽器の面白さ。まだまだ発展途上ではあるけれど、今までに経験できなかった音世界の中に足を踏み入れて、奥へと分け入り進み始めていることだけは確かなことだ。
楽器への先行投資や稽古代謝礼など、若干の費用はかかるが、目下のところは大丈夫。新しい世界を見つけられたことは、幸せだと思う。

幸せはお金だけじゃ買えないって!2

2.ささやかに長く続ける趣味
あまり家計を刺激しないささやかな趣味をもつ。できれば若い頃からずっと続けていれば、さらにいい。私の場合は、大学入学後からコーラスの世界にズブズブに浸り、もうかれこれ45年になる。自分の声をみんなと合わせてハモる楽しさ。一言で言えばそれだけのことだけど、歌うとかハモるとかは。西洋音楽の根本なので奥が深い。
必要な先行投資は、楽譜代だけだ。現在は東京と地元港南台でコーラスしており、東京までそれなりの交通費がかかるが、合唱そのものにかかる費用はリーズナブルだ。地元港南台の方は、自分自身が代表となって立ち上げたグループなので、やりたい放題の感があるけれど、費用はかかってない。一応指導もしているが謝礼は受け取っていない。