オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

多田武彦 男声合唱組曲「雨」を歌う 3

 武蔵野の雨

 作曲者自身の言葉で「ミューズの神」が宿ったと言わしめた名曲。自分自身なぜこのような旋律が湧くのか、このような曲が書けるのか、について少々神懸かり的な感覚をもたれたのであろう。事実、この曲は独立して演奏される機会も多く、終曲「雨」と並び立つ人気曲である。
 曲がいいということは、技術が伴わなくてもそれなりに曲のよさが、演奏者の能力を超えて、伝わってしまうということだ。事実、曲のよさに依存した演奏は、とりわけアマチュア団体の演奏会において多い。しかし、それは表現者として、最も恥ずかしいことであり、自分たちが「なぜ」「今」「この曲と向き合っているのか」を説明する根拠も同時に無くなってしまうことだ。
 この曲を、歌い通す困難さは、ひとえに音量と各パートのバランスにある。歌い出しの四小節(もちろんノンブレス)を、どこまで抑制した音量で歌い通せるか。ただ、悲しいかな。音量を落とす=かすれた声、息混じりの声になってしまうので、当然正確なピッチが決まらず、ハーモニーが雨の中に煙ってしまう。
 正確なピッチと音量を極限まで抑制する技術の両立が、意外と論じられていない気がする。だからpは「息混じり」の声で良いとする指導者もいるくらいで、声帯をゆるめてしまった「息混じり」では、正確な音程によるpは表現できないことを、もっと追究してよいと思うのだが。
 この曲も、多田節特有の泣かせる場面がある。「むさしの の あめ」とベース系から全パートに引き継がれる音型も、一度聴いたら忘れられない旋律だが、今回トップで歌い、「むらどりを おいながら」に続いて、追いかけで歌うオクターブ上の「どのとちを ぬらしに」の旋律の所で、「どの」の二音をテヌート気味に歌うと、実に演歌的で気持ちよいことに気づいた。