オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

関東巨大仏巡りの旅5

もう一つ造形の与えるインパクトについて。
仏像や観音像は、どうしてもお決まりのお姿からはみだせない。運慶のような革命的な芸術家でさえ、デフォルメに限界を感じていたに違いない。だから運慶以降、再び仏像彫刻は定朝様式に回帰してしまう。
その点、人物像も制約がある。現存した人の記憶を元にしているから、これまた写実性を維持しなければならないので限界があるのだ。想像をたくましくして彫ると西郷像のように、奥さんから「うちの人はこげん人じゃなかー!」とか言われてしまう。
モニュメント!これは何の制約もない。自由な造形だ。例えば太陽の塔にモデルがあるか?世界中探してもあのような不思議なものはないだろう。ある意味何だかわけがわからないものなのだ。それなのに50年近く多くの人々があの不思議且つ奇怪な塔に魅せられてきた。
岡本太郎としては、してやったり!だろう。

電車は熊谷を過ぎ、籠原に到着。車内もだいぶ空いてきた。

太陽の塔に話を戻すと、あれは神様でも仏様でもない極めて不思議な存在なので誰も手を合わせない。もちろん拝まない。でももし誰かが「この塔は実は神の化身なのだから拝みなさい!」などと言い出したら何人かが拝み始めてしまうかもしれない。
そのくらい異様なオーラが、太陽の塔にはある。
巨大仏にせよ太陽の塔にせよ、その像と対峙した時人は自分の心と対話を始める。自分の小ささやつまらなさを否応なしに実感してしまうのだ。
おごり高ぶった我々現代人(私だけ?)は、一度巨大仏を仰いでみるといい。(太陽の塔でもいいけれど)普段は気づかない何か。自分の心のベールを一枚はがした内側が見えてくるかもしれない。