オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび274

内田樹「修業論」を読む

 


まえがきで著者は語る。努力を一種の商取引のように感じている人には修業はわかりにくい。修業して獲得されるものとは、修業を始める前には意味不明で、意味価値は事後的回顧的にしかわからないのだから。

修業とは、誰もいない自分だけの、しかもゴールのわからない未知のトラックを一人で走っているようなもの。競争相手はどこにもいない。

生業と稽古は表裏一体。著者が稽古している合気道で開発される能力のうち最も有用な力は「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」だと言う。これはわかりやすい。そして稽古を通して「集団をひとつにまとめる力」を身につけようとしているらしい。

続けて無敵とは何か? 心身のパフォーマンスを低下させるファクター(要因)=敵という認識から、生まれた時からずっと振り下ろされる真剣の白刃の下で生きている存在としての我々、入力と出力が同時である石火の機や啐啄の機が語られる。

だんだん話が修業らしくなってきました。(つづく)

オヤジのあくび273

山鳥重「気づくとはどういうことか」


いのちとは? こころとは? という深い問いが第一章で語られる。こころは、脳の働きなのか? 神経網との関わりはどう説明できるのか? に著者は果敢に挑んでいらっしゃる。すると創発という言葉が出てくる。物理化学的な法則に従う神経と並行して縛りを受けながら、独自の原理に基づいてこころは働くという説明です。

鉄でできた自転車が、鉄という材料の縛り(脳神経)を受けながらも、より遠くへ速く人を運搬する(心)という原理を基に作られている・・との説明はわかりやすい。

この本の仕組みも、こころがどのような神経=脳脊髄の働きによっているか? に何度も戻りながら、こころの動きを解き明かす作業が進められていく。

「いま」に対して「こころ」がどう関わっているのか? ベルクソンの示した仮説が出てくるけれど、偶然最近ベルクソンの解説を読んでいたのでずいぶん助けられた。ただ脳神経学者である著者は、生きることの意味価値を哲学者とは違った視点で語る。記憶障害を始めとするさまざまな脳の症状を臨床の場で経験しており、そこから神経の働きを元にしたこころの働きを語っているのです。

最終章で、武術=弓道に打ち込んだドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルのエピソードが語られる。ある技術を身につけて、的に正確に当てることを目的と考えるスポーツとは対照的な師匠阿波研造の難解な思想が語られている。鬼滅の刃のヒットで全集中という言葉が流行したけれど、そもそも集中とはどういうことなのか? 考えてみるチャンスだったのだと思いました。そして一番最後に鈴木大拙の説いていた霊性が著者が言うコア感情やアクションと一致するのではないか? と提起し、本書が閉じられます。

普段気づかなかったことに目を向けてみることで、気づきとは何かが、ほんの少しだけわかった気がします。

オヤジのあくび272

菅義偉「政治家の覚悟」を読む

 

頑固者、正義感の人、「なあなあの馴れ合い」で誤魔化すのが大嫌いな人という輪郭が浮き上がって来る。

菅さんは2世議員ではなく、横浜市会議員から国会に出て総理になった人だけど、この本では、国会議員として政務官総務大臣を務めていた時代に、どんな課題と取り組んでいたかが、よくわかる。一度言い始めたら決して引かずにやり遂げる姿勢から、頑固さと正義感の強さを感じてしまう。

おそらく溜まったもんじゃなかったのは、近くにいた官僚でしょう。吉田茂総理や池田勇人総理の頃のように官僚を育てる大臣ではなく、官僚を使い尽くす時代に変わっていることがよくわかる。私も教員という地方公務員の端くれでありますが、行政とのやりとりが必要な場面では、その理不尽さにいつも憤っていたので、菅さんの官僚に対する態度は、快哉と感じてしまいます。前例主義、自分たちの既得権を脅かすものを徹底的に退ける姿勢が、どれだけ蔓延していることか!

コロナ対策に追われながら、菅前総理が打ち出した政策の中で、いかにも菅さんらしい・・と感じるのはデジタル庁とこども庁の新設です。縦割り行政の弊害を打破して、いかにして国民が必要としている行政サービスに対応するか? が、この政策にも現れています。強面で人に媚を売るタイプの政治家ではありませんが、どちらを向いて政策を考えているか? については、誠実さを感じていました。

オヤジのあくび271

肩書き・敬称としての先生

 

先生に限らず、社長、大臣etc、肩書きで呼ぶべき人は多い。本当は「〜さん」でもよさそうだが、格好がつかないらしい。これは、本当にその方を尊敬する信頼しているかどうかとは、別問題の場合がある。

教師という職業について言えば、いつ誰の先生になれるか? の真の意味は、ただ担任になったとか、教える立場になったではない。児童生徒保護者側の立場から、この人は自分の先生なんだ! と思えた時が先生になることができた瞬間なのであります。そこにこそ教育という仕事の醍醐味が含まれているのでしょう。

それは、偶然による出会いみたいなもの。意図的に仕組んで、そう言わせている場面があるとしたら、私は管理教育的だと感じてしまう。

大人側が指示して「仰げば尊し」を歌わせているようなもので、心の奥底でどう感じているのか? をもっと大切にした方がいいと思う。あの曲は本当に信頼し尊敬できる我が師に捧げる歌であろう。

さらに言えば、本当に教師を信頼しているか否かは、子どもたちの笑顔でわかるものだ。そこには「先生!」と言葉を発する真っ直ぐな気持ちがあるはずだから。自戒を込めて。

オヤジのあくび270

赤瀬川原平老人力自慢」

 

この本は前世紀の末に売れた「老人力」という本の続編であります。1999年ゲンペイさんは、現役引退とか定年退職後とかの機会をとらえて「これからの人生は、お金以外の価値を見つけられるかどうかにかかっているのだ」と書いている。

この本を書いたのが、ゲンペイさん1999年.62歳の時。ボクはもう物理的にはその年齢を通過してしまった。この本は、中身のかなりの部分を読者の感想=読者カードが占めていて、省エネ設計なのだけど、読者の年齢が60歳を少し過ぎたばかりで、結構老人力を意識し始めているのです。22年前の60歳と今の60歳の状態がかなり違っていることを感じます。もちろん人それぞれだろうけど・・・。

 

このブログを書いているボクは、今年男声合唱団でトップテナーからセカンドテナーに変わりました。ボクとしては力み過ぎて響かない気がしたので自分を解き放すために。けれどもそれが努力不足なのか? 年相応の判断なのか? はよくわからない。老人力にも似たようなことが言えそうで、もの忘れは仕方ないけど、どこまで自分を甘やかしていいのか? よくわからない。けれどそれでもいいんじゃない! ときっとゲンペイさんはおっしゃるだろう。バカボンのパパなら「これでいいのだ」と言うだろう。

オヤジのあくび269

西岡常一・小原二郎「法隆寺を支えた木」2

 

後半は、小原二郎先生の「木」という材料に関わる話。さまざまな分析結果が示されているが、木という生き物の仲間と共に呼吸しながら生きていく日本人の文化が大きく変化していることへ懸念を示されているように感じます。先生は木材等を生物材料と呼んでいるが、一般的に経年劣化すること他の材料と比べ、木は反対に強さを増すことがあるというのは驚きです。法隆寺のヒノキ然りなのです。

石、鉄、木・・それぞれ元々は自然界にあったもの。けれどもプラスチックは明らかに化石を元に人間が創り出した材料だ。エネルギーで言えば、原子力と似ている。元々の自然から大きく逸脱しているのだ。生物としての小ささや目線をどこかに置き忘れ、人間はとてつもなく傲慢な存在になってしまった。まだ私たちより未来に可能性が僅かでも残されているなら、それは生物としてもう一度ベースラインに戻らないとわからないのかもしれない。

 

 

 

 

オヤジのあくび268

西岡常一・小原二郎「法隆寺を支えた木」1


教員退職後に木工職人を生業にしている友人がいて、私は琵琶などのメンテナンスでお世話になっている。空手の達人でありピアノは私よりずっと上手くて、子どもらと合唱するときはよくサポートしていただいた。たまに彼のお店に行くと「木は生き物だから・・」という言葉が聞かれ、本書にも通じている気がする。

西岡さんによれば、山で二千年生きた木を切り出し、建造物を支える木として第二の人生=木生? を二千年送るためには、山から切り出したあとに樹液を抜く時間が3〜10年必要なのだとおっしゃる。昔は運搬そのものに大変な時間がかかったので、それが寝かす時間となったのだろう。

この話は、会社人間・組織人間として集団という山の中で生を送ってきた人が、第二の人生をスタートするための準備に似ている。肩書き、収入・・身体の中に溜まったドロドロした液を抜いて、次の人生が始まるのだ。きっと。