オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび481

佐藤和孝「戦場でメシを食う」を読む3

 


無政府主義者=アナーキストとは所詮現在の体制を批判して新しい秩序を求めているだけなのかなぁと感じた。本書のアルバニアの章を読んでそう感じたのだ。独裁社会主義国アルバニアは長い間鎖国していた。だから海の対岸にあるイタリアのpizzaやバナナの味をこの国の人たちは知らなかった。その後開国して民主主義資本主義の時代が来ると思いきや、何とねずみ講が原因で統治機構が崩壊し、無政府状態に陥ってしまったのだ。

続いてチェチェンへ。羊肉のシシカバブキャビアの話が登場して、ロシア連邦との戦いが小休止を迎えていた時期の食事情を書いている。

そしてインドネシアアチェ。私たちはアチェの独立闘争について、あまり知らない。外国人記者の報道が規制されて日本まで情報が届いていないのだ。しかし我が国はこの地域から多くの液化天然ガスを輸入して生活しているのだ。ここには何と女性のゲリラ部隊があるのだ。女性が銃を取り戦う行為に憎しみの深さをボクは感じた。

無辜という言葉が出てくる。罪もない人々を無辜と形容しているのだ。本書の最後は、ブッシュ政権空爆を開始した当時のバグダッドが描かれている。ミサイルによる無差別な空爆が街を襲う中、筆者は爆撃によって揺れるホテルにいたのだ。戦争は一般市民を危険に晒す。イラクの章には犠牲になった香田さんの話も出てくる。もちろん筆者も含めて、戦地に近寄ることは極めて危険であり、外務省が止めるのは尤もな話だ。けれど筆者を含めてジャーナリストが、世界に現地の様子を発信しなければ、誰も本当のことがわからない。

信長貴富構成・作曲による「僕の村は戦場だった」では「伝えることでいつの日か何かが変わるかもしれない。そう信じて紛争地を歩いている」とジャーナリストの信念を歌っている。

オヤジのあくび480

佐藤和孝「戦場でメシを食う」を読む2

 


話題はサラエボに移動する。以前緒方貞子さん関連の本を読んだ時に凄まじい内戦の様子が記されていたことを思い出した。サラエボ1984冬季オリンピックの開催地だが、それから10年も経たないうちに内戦によって街が廃墟のようになってしまった。

ボクはチトー元帥の独自路線を思い浮かべていた。ソ連からは相手にされず、労働者による自主管理という独自の社会主義政策を推進したと言う。そしてチトーが生きていた頃はユーゴスラビアと言う多民族国家が地図上にあった。それぞれの民族に対して妥協や調停を重ねた危なっかしいバランスの上に国が成立していたのだろう。チトーというカリスマの死によって国は崩壊の道へ向かう。それはいい。けれどなぜ戦うのか! そして国や民族どうのこうのよりも、まず自分の家族を守ろうとして人は銃を手にする。

サラエボ編の最後にシーメックという地雷・不発弾処理の担当者が登場する。サラエボ内戦ではどこに地雷が埋められているのか? さえはっきりわかっていないのだ。彼は何と素手でヘルメットも棒弾チョッキも着けずに不発弾を抜く。もちろん爆発したら即死である。しかも彼はこの作業をボランティアでやっているらしい。テレビなら「

絶対に真似しないでください」とテロップが流れるだろう。一刻も早く危険を取り除くためにこんなことをしている人もいるのだ。

 


読みに来てくださり、ありがとうございました。バックナンバーに興味がある方がいらっしゃいましたら、以下のリンクに放り込んであります。

 


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オヤジのあくび479

佐藤和孝「戦場でメシを食う」を読む1

 


タイトルの付け方は「?」な感じを抱かせる。けれどどんな状況下でも、人は食べ物のことを考え続けている。むしろ極限まで追い込まれているからこそメシのことが最重要なのだろう。テレビにもよく登場した筆者だけど、テレビからは香りや食感は伝えにくい。だからこそ文字に書かれて本書ができたらしい。

まずは、冒頭のエピソード。1982年ソ連が侵攻していた当時のアフガニスタンに、筆者は反政府ゲリラ勢力の一員として入国し、バーミヤンまで行っている。雪中、富士山くらいの峠を越えひたすら歩くのだ。ダリ語という現地語や凍りついたナンを主食とする様子が語られているが、筆者は帰路やはり徒歩で戻る途中肝炎を発症して、置いてきぼりにされてしまう。言葉が通じない怪しい存在はモスクに閉じ込められてしまうが、翌朝一転して医者を呼び、置き去りにした隊長も迎えに来てくれる。

テレビで報道されている情報は、本当に現実の一部分にしか過ぎないことが、少しずつわかってくる。アフガニスタンだから当然泣く子も黙るタリバンが出てくる。筆者はアメリカが支援する以前の北部同盟に帯同して、戦場を取材しているのだが、100m先にロケット弾が爆発するような最前線で兵士とチャイを飲む場面が描かれる。まさに「腹が減っては戦が出来ぬ」そのものであります。

オヤジのあくび478

鳥居徳敏「ガウディ」を読む

 


このちくまプリマー新書はシリーズものになっていて「よみがえる天才6」としてガウディが取り上げられている。誰もが真似したくてもできない資質才能とそれが発揮された表現を以て、天才と呼ばれるのだろう。ガウディの平曲面やパラボラを多用したり、洞窟内の曲線の美しさを再創造したりする建築を見るにつけ、その他のあらゆる建築家と隔絶した存在であることがわかる。

本書の前半は、彼が育ったカタルーニャの風土、銅製品を作っていた父母の影響、大学では他科目に比べて、幾何学の成績が極めて優秀であったことなどが語られる。ガウディは「建築は講義から学ぶのではなく作品から学ぶもの」と言っている。それは実際に作ってみてナンボという職人気質を表しているかのようだ。

ところでサグラダ・ファミリア教会と言えば、21世紀の現在もなお建設は遅々として完成に至っていない。これは教会の建設を始めた聖ヨセフ信心会が貧困に喘ぐ人々の集まりで、産業革命以降貧富の差は拡大する一方だったから、建設は常に赤字で資金もなかなか集まらなかったのだ。資本家や貴族がバックについたなら、状況は変わっていたに違いない。ガウディ自身は、第一次世界大戦の頃すでに建築界の大御所的な存在だったが、一切の仕事を止めてサグラダ・ファミリア教会の建設に集中する。そして献金を求めて見知らぬ家を戸別訪問して回ったのだ。

ガウディは、路面電車との接触事故が元で亡くなる。この事故に遭ったみすぼらしい姿の老人が有名な建築家ガウディであると、気づくまでにかなりの時間がかかってしまいました。聖堂建設に集中し、衣服は粗末で食事は生野菜と牛乳程度しか取らなかったガウディ。そこには使命に人生を捧げる清く貧しい生き方が感じられます。世界的に有名な建築家としてのガウディと日常の目立たない姿には大きな落差があったようです。

最後にガウディの言葉。「人間は創造しない。」カトリック信者であるガウディにとって造物主は神だけなのですね。「神と協働しないのであれば模倣者になる。」模倣から学びつつ、その一線を超えるための何かを説いているようです。

オヤジのあくび477

小松茂美「利休の死」を読む

 


利休は正親町天皇から64歳の時に贈られた名前で、19歳からそれまでは宗易を名乗っていた。便宜上本稿では利休で通します。ちなみに筆者は古筆学を職とされていた方なので、本書は利休の手紙など実際の文献をもとに語られている。

橋立と橋雲という利休愛用の壺を巡るいざこざを、手紙や記録を元に明らかにしていく。これを秀吉が所望し利休が一蹴したことが、後々秀吉から疎まれる原因となっていくのだが。すごいのは利休の茶室に招かれていた客人の名前! 大名オールスターズとでも言うべき人々が利休の茶に招かれているのである。

話は奥州の伊達政宗が、小田原参陣の際千利休に会おうとしたが、生憎利休は病気療養中で叶わなかったこと。翌年政宗が京都へ上洛を果たし、ようやく面会が叶ったことと、その頃の利休を巡る不穏な動きを追っていく。

利休が堺に蟄居を命ぜられ秀吉から遠ざかることで、側近として力を奮うことができる人物は誰か? 本書では背景に石田三成の讒言を想定している。さらに大徳寺の利休木像が一条戻橋に磔になると言う正気の沙汰とは思えない事件! が起きる。木像を磔にするって、どういうこと? そして秀吉に頭を下げようとしない利休は京都に呼び戻されて切腹させられる。謝る理由など利休にはなかったのだろう。有力な説として既に他家に嫁し後家となっている利休の娘を秀吉が側室にしたかったという話もある。しかもその女性は自殺してしまうのだ。どちらにしてもめちゃくちゃで、すでにこの頃の秀吉はまともな精神状態ではないですね。

本書は茶道の世界について、紹介した本ではない。歴史上のミステリーである千利休の死について豊富な資料を駆使しながら、その謎を解いていく本である。古文書の引用が大部分を占める本書を読んで、大学時代のことを思い出しました。私は教育学部社会専攻社会学研究室を卒業させていただいたのですが、廊下を隔てた向かいは歴史研究室でした。歴史に興味はあったのですが、日々古文書と向き合い仲間の姿を見て、これは私にはとてもハードルが高い研究だと感じていたのでした。

オヤジのあくび476

ゴードン・S.ウッド「アメリカ独立革命」を読む3

 


「人は生まれながらにして平等」「ある人々と別の人々との違いは能力を向上させる機会の違いにのみ由来する」つまるところ教育と修養によって人の違いが生まれるという議論は、教育の機会均等をどう担保したらよいのか? という現在の課題にまで通じている。けれど貴族、王党の横行が大手を振って罷り通っていた18世紀後半、多くの人の心を、とりわけ新世界新天地であったアメリカ人の心を捉えたのは間違いないだろう。

さて独立を勝ち取り、王制その他の身分制度から解放された新しい国は、代わって権力を手にした州(各邦)議会の横暴に頭を悩ませる。現在に至るパターンだけど各階層集団のための利益誘導型の政治に陥っていったのだ。ジェファーソンはヴァージニア覚書の中でこう言う。「173人の暴君たちは一人の暴君と同じほどまちがいなく抑圧的になるに決まっている」「選挙で選ばれる専制政治などというものは、われわれが勝ち取った政体ではない」と。

新しい共和国として、通商外交防衛、さらに金融政策面で統一した政策を打ち出せないことによる不利は明らかであった。諸邦の連合会議が機能していなかったのである。ではやはり中央集権的な政府が必要なのか? しかしそれは独立時の各邦が独立した主権を保持する政体とは真反対であった。そこで1787年フィラデルフィア会議が開かれた。その場に登場したのが、政府軍の指揮から退いていたワシントンその人であった。人民全体が最終的な権力を保持しているという認識を取り込むことによって、連邦憲法が成立した。そして現在に至るまでアメリカ大統領は王に代わる強大な権力を保持している。

しかしながら、たびたび引用しているジェファーソンが大統領になると、国家的政府の権限の縮小を図るのだ。それは中間の人々を担い手とする新しいデモクラシーの始まりであった。アメリカの葛藤矛盾は、その後200年経つ今も続いている。丸山眞男曰く「永久革命としての民主主義」なのかもしれない。

オヤジのあくび475

ゴードン・S.ウッド「アメリカ独立革命」を読む2

 


ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカは、アメリカ諸邦連合と訳すべきなのかもしれないが、日本にいるとホワイトハウスの動きばかりが報道されるので、中央集権的に見えてしまう。EU的な主権国家の結びつきの方が建国当時の実態に近いようだ。さらにアパラチア山脈より西、ミシシッピー川より東の広大な土地は、北西部条例によって東部十三邦の植民地とはならず、新しい邦として対等な仲間とされることになったのだ。これが従来の植民地主義帝国主義と大いに異なるところだろう。

そろそろ独立戦争について触れよう。当時世界最強の軍隊を保持していたのは、グレートブリテン帝国であり、植民地のアメリカには常設軍などなかった。しかし、グレートブリテン軍は本国から3000マイルも離れた土地で兵站が困難であったし、しかも相手国には権力中枢となるような都市がないのだから、どこに攻撃を集中すべきかがわからなかった。対するワシントン司令官は、結果的にゲリラ的に小競り合いや襲撃を繰り返して、敵軍が攻撃力を最大限に発揮する機会を奪っていった。ワシントンの戦いは勝ったり負けたりの繰り返しで、彼は天才的な兵法家ではない。けれど彼の誠実かつ的確な判断が多くの人から信頼を得ていたこと、けれど反対にネイティブ・アメリカンに対して恨みでもあるかのように常に殲滅を目指したことは、あまり語られないが紛れもない事実だったのだ。