オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび628

谷川俊太郎「風穴をあける」を読む2

 


谷川さんが初めて読んだ本は野上弥生子さんの「小さき生きもの」だったと言う。「・・この本を幼い私が好きだったかというとそんなことはなくて、退屈で退屈で死にそうだったのを覚えている。それなのに捨てなかったのはどうしてだろうか。理由はただひとつ、読んだ本がその人間の人生の一部になってしまうからである。」

本書前半の読む・書くに続く、後半のテーマは人。そのトップバッターに写真家荒木経惟さんが登場する。彼の写真が無意識に依拠していて、言葉を介在させない表現であることを書いている。おそらくは無意義から発する表現を大切にしてきた詩人との共通項を感じたのであろう。

また大岡信にふれた文では「私は大岡をウェーヴィクルにたとえたことがある。(粒子と波動の両属性を指す言葉らしい)・・・粒子性を西欧社会における個にあてはめ、波動性を日本社会における和になぞらたいのだが・・現実は対立し、矛盾しあうふたつの面から近づいてこそ、その一なる全体性を垣間見させると大岡は確信していて、それはまた詩人であると同時にすぐれた批評家でもある彼の一貫した方法でもある・・・」

この本の最終章は、武満徹に割かれている。「前衛と保守、クラシックとポピュラー・・彼にはそんな差別はない。音楽は権威主義からもっとも遠く、歌う者にも聞く者にも生きる喜びをもたらすものだということを、彼は生まれながらにしてよく知っているからである。」若い頃から武満徹といっしょに作業してきた谷川俊太郎は、彼が作曲をやめて佃煮屋になりたかったり、自己破壊の衝動にかられた発言をしていることを知っている。彼は音楽を制度や伝統の中から生み出すのではなく、原初の静けさから生まれる無垢な音を聞き取りたい渇望から生まれたのだと。

 


今までボクは理屈っぽい本を読んだ後、コチコチになった脳をリセットするために随筆は適していると一人合点を決めていた。しかし今回谷川俊太郎さんの本にふれて、自分の浅はかさに改めて気付かされた。随筆は筆者が気の向くままに書き流した産物ではない。言葉を進める速度はそれぞれだろうけど、身体の深いところから滲み出てきた作品なのだ。

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