永国淳哉編「ジョン万次郎」を読む2
万次郎が捕鯨船で世界中の海を巡っていた頃、アメリカ西海岸ではゴールドラッシュのブームに湧き立っていた。そして一攫千金を目論む男どもの中に何と万次郎も身を投じていたのである。そしてここで稼いだ金が日本に戻るための渡航資金となるのだ。万次郎はホノルルに渡り現地にいた仲間二人と合流すると「アドベンチャー」号で沖縄に向かう。(アドベンチャー号は小舟だから途中までは上海行きの大きな船の甲板に乗せてもらっていた)沖縄→薩摩→長崎というルートを経て、万次郎はようやく故郷土佐へと戻った。そこから先が目まぐるしい。土佐藩から武士の身分に取り立てられるかと思えば、次には幕府から召し抱えられる。旗本直参の身分になったのだ。幕府はベリーへの対応に万次郎を当てようしたのである。しかし水戸藩の徳川斉昭がアメリカかぶれの万次郎では、アメリカに有利な交渉をするに違いないと疑い、条約交渉の場からは外されてしまう。万次郎が歴史上活躍し始めるのはアメリカに渡る咸臨丸の船上であった。ほとんどの日本人が荒波による船酔いに悩まされる中、甲板に立っていたのは万次郎だけだったとも言う。その頃の活躍は凄まじく、世界各地を移動する距離も半端ではない。主な仕事は通訳と英語の教授ということになるだろう。
明治に入り、活躍の勢いが緩む。明治四年、万次郎44歳、脚の潰瘍や脳卒中を患い、歴史の表舞台から遠ざかるのだ。
この政治の中枢で活躍した時期というのは本人にとって、どんな価値のある生活だったのだろう? 万次郎は明治二十一年61歳で小笠原方面への捕鯨航海に同行している。万次郎はやはり海の男だった。鯨取りは鯨取りが一番似合っていたのである。