オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび281

頑張った結果に責任がもてるか? 5

 


かなりテキトー教師だったボクにも転機が訪れました。40歳を迎えた頃のことです。その頃校内に「新しい学校づくり委員会」というチームができて、なぜか? メンバーに選んでいただきました。1990年代の後半、学校像、教育観はかなり揺らぎまくっていましたが、勤務校でも今までと同じことをしていては、ダメでしょ! 的な雰囲気ができたのだと思います。私がそこで学んだことは、結局は地域の中に学校があること、地域なくして学校なし、という考えです。未来の街をつくるのは子どもらなのです。

転機でした。そして学校運営・これからの学校づくりに関心が高まりました。それから退職までのおよそ15年が自分の中では「頑張った」期間のつもりです。それは、組織とかのためではなく、あくまでも自分のテーマ「地域に根ざした学校」という課題意識に基づいた頑張りでした。だからこそ自分の身体が動いたのです。納得のいかない、外から指示された目標であったら、性格的に頑張ることが出来なかったでしょう。

頑張った結果に責任がもてるか? は、自分自身で設定した課題や目標であった場合に、初めて自己責任を問えるのだと思います。

 


そして今は・・と言えば、しぶとくまだ先生をしています。自分の競技が終わったのに、まだグラウンドに残っている選手みたいです。けれど野球選手が野球場で自分の力を発揮するように、私に学校で、まだ子どものために少しは役に立つ部分が残っているなら、燃え滓的に残り僅かな消費期限を過ごしていこうと思っています。

オヤジのあくび280

頑張った結果に責任がもてますか? 4

 

子どもたちは、学校に来たら先生の顔を見て過ごさなければなりません。先生が怖い顔をしていたり、ピリピリしていたら、それが子どもに伝染することは疑いのないことです。

私は、教師としての資質能力など大してないと開き直って、とにかく楽しい先生でいたいと、極めて単純ですがそれだけを考えていました。

アクティブラーニングなんて難しい言葉を使っていますが、要は子どもと対話しながら学習を進めるってことでしょう? 何か、これもしなくちゃあれもしなくちゃと思い詰めると、確かに今も昔も教育現場はパンクです。仕事の忙しさを勤務時間で計ってもパンクです。

けれども、要はスタンスじゃないですかね。こうしなきゃ、ああしなくっちゃではなくて、子どもに直接跳ね返ること以外なら、事務作業はもっとテキトーにゆるゆるやっても構わないと思うのです。授業中に脱線したって、学習が進んでいたようなことは、もともとお目こぼしされていたものです。比率として脱線話の割合が増えすぎては何の授業なのかわかりませんが、子どもたちは脱線話から先生が興味を持っていることや教科書に書いていない本当に楽しいことを学んでいたと思うのです。

私? 脱線多かったですね。「今も」かもしれませんけど・・。

今は、目当てはここに書いて、まとめはここに書いて・・なんて型にハマった黒板の使い方が、どのクラスもスタンダードになって決まっている。いろいろなところに注意が向いてしまうお子さんがいるから机は全員前向き! どれにも根拠があるし、大切なんだけど、教室に入った瞬間担任の個性がありありと滲み出ているクラスが少なくなりました。

大きな計画と学習内容さえ抑えれば、もっと専門職として教師一人ひとりの自由度が高くていいはず! というのが私の考えです。学校全体とやらのために頑張るのではなく、目の前にいる子どもに気持ちを注ぐ、そこに喜びを見出せば、今の教師観は変わる気がします。だいぶ話が逸れたけど。これも脱線ですね

オヤジのあくび279

頑張った結果に責任がもてますか? 3

 

受験能力は努力した量の一部を図ることであって、努力の質を問うことができない。

つまり受験能力とは18歳時点の最大瞬間風速のようなもの。その先さらに発達するか? 急速に弱まるか? は人によりけりでよくわからない。

コツコツ努力する=いわゆる頑張ることが元々苦手で、しかもひねくれた自我の目覚めも手伝って、中学後半から高校3年の前半まで、それはまあ、ひどい成績でした。このままじゃ、大学受験どころじゃなかったはずなのですが、流石に高校3年の最後の方は少し勉強しました。自分的には最低の時間と量の範囲で要領よくこの時期を通り抜けてしまいました。

この最低限の時間と量がポイントでして、今でも本質的な内容を最低限覚えておけば、あとはその場で応用が効くという学習方法が、きっとあるはずだと思っています。けれどそんなお気楽な勉強法では、高まった風速があっという間に萎んでしまうことも確かなのですが。

オヤジのあくび278

頑張った結果に責任がもてますか? 2

 

あまり頑張ってこなかった話その1。ボクの場合、小学生の頃唯一社会科が好きでした。それは毎日地図帳や時刻表を擦り切れるまで読んでいたせいで、勉強した結果ではありません。サッカー少年大空つばさくんがボールは友だちと言っているのと同じ理屈です。

運動神経が弱く、そもそも身体を動かすことがあまり好きじゃない、興味関心資質に偏りがある、そんな子でした。後年小学校の先生になったのは、我ながら実に不思議です。

翼くんのように、いつもサッカーボールと戯れていれば、自然とサッカーが上手くなる。自分に寄り添ってくれるものや付き合ってくれるジャンルを探していれば、必要以上に頑張ろうと追い立てなくても平気なんじゃないですかね。出会いとか好奇心のありかは大切な気がします。

オヤジのあくび277

頑張った結果に責任がもてますか? 1

 

今頑張ろうとしている人、やってみないとわからない。そりゃそうですね。

頑張れと声をかけ続けている人、保護者、指導者あるいは先輩であるあなたは頑張った結果を予想することができるかもしれません。その結果に責任がもてますか? 長いスパンで。

 

頑張れと言うからには、頑張れば、状況が変わるという予想を立てているからでしょう。

けれどもその前に、頑張れ! と声をかけようとしている人あるいは自分自身に対して、次のことを問い直してみませんか?

 

その人は「頑張れ」と言って平気な人なのか? どんなことでもほどほどに頑張って成果を残せる人なんてほんの一握りに過ぎません。ほとんどの人は、自分でも頑張れそうなことを探している途中だったり、頑張ることで逆に負荷がかかり過ぎてしまう人だったりでしょう。

 

私自身、振り返ると大して頑張り過ぎることなしに高齢者の仲間入りをさせていただきましたが、だから何とか身が持ったとも言えそうです。

オヤジのあくび276

鈴木カツ「こだわりアメリカン・ルーツ・ミュージック事典」を読む

 

白状してしまうと、Facebook上で4月末ごろに連載? していた「カッコいいぜ アメリカンミュージック」のネタ本です。

もちろん大いに刺激を受けて、楽しませてもらいました。著者は茅ヶ崎市の人で、ご存知のように茅ヶ崎市は有名なミュージシャンを輩出しているのだけど、アメリカンミュージックに触れる環境が整っていたことがわかる。

ボクも茅ヶ崎の高校時代、ラーメン屋とかダイクマとかを、ぼんやりぶらぶらしていなければよかったな・・と思うけど、後のまつり。

この本の活用法は、今まで馴染みがなかったミュージシャンに触れることだった。その成果を「カッコいいぜ! アメリカンミュージック」とタイトルして、動画と一緒にFacebookに掲載しました。

「20世紀のアメリカポピュラー音楽史」的なスケールの大きい本です。

オヤジのあくび275

内田樹「修業論」を読む2

 

我執を捨て去る! に話題が移る。意思、計画、予断をもたなければ、木偶の如く愚者の如く木鶏の如く我執を捨て去る私になることができると著者は説く。木鶏と言えば、大横綱双葉山が69連勝後に敗れた時「未だ木鶏に及ばず」と語ったエピソードが出てくるが、まぁ大変な境地です。

話は勝ち負けや強さ弱さの規準への懐疑に及び、話題はジャンピングし続けていく。だからある地点まで戻って復習のようなことを再度書き付けているのが内田樹の文の特徴だ。

その中で「無知」を学びへの根源的な衝動を妨げるものと定義づけている。著者は長い間大学の先生だったはずだが、この言葉は重い。恐らくは著者の周辺にサンプルが存在していたのだろう。世の中に思考停止に陥っている先生方がなんと多いことやら! 子どもの前でどうにか先生稼業を続けている自分への自戒も込めて。