オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび629

ちばてつやが語る「ちばてつや」を読む1

 


ちばさんは高校3年生で貸本漫画家としてデビューしている。いろいろなアルバイトを始めてみたもののどれも上手くいかない。そんなちばさんが訪ねたのが、貸本漫画の日昭館書店。社長さんの名前は石橋国松。のちに一文字変えて「ハリスの旋風」主人公の名前になる。

ちばてつやさんに限らず、若い頃少女漫画を描いていた作家は多い。「ユカを呼ぶ海」という作品で、お転婆で男の子なんかに負けない少女を登場させる。今となっては当たり前だが、それまでは主人公=薄幸のちょっと病気がちな女の子が定番だったので、これは大きな改革であった(編集者はハラハラしていただろうけど)

また少女漫画と言えば、特有の星がキラキラ輝く瞳と長いまつ毛。ちばさんは星が光る瞳はやめてしまったようだが、長いまつ毛を描くクセは抜けずに、矢吹ジョーもまつ毛が長いという。

ところで、ちばさんは失礼ながらかなりの遅筆のようだ。締切に追われるちばさんを助けていたのが、松本零士さんやトキワ荘の漫画家たちだというから、なかなかすごいコラボ! なおこの頃の回想に登場するのが、弟のあきおさん。ご存知「キャプテン」の作者です。編集者とあまりの遅さに業を煮やしたのか、ちばさんは、ストーリーの原案者がいる漫画を描き始めることになる。およそ週刊誌の連載には適さないちばさんが「少年マガジン」の売れっ子になるのだから、世の中わからない。

 


明日の投稿に続きます。

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オヤジのあくび628

谷川俊太郎「風穴をあける」を読む2

 


谷川さんが初めて読んだ本は野上弥生子さんの「小さき生きもの」だったと言う。「・・この本を幼い私が好きだったかというとそんなことはなくて、退屈で退屈で死にそうだったのを覚えている。それなのに捨てなかったのはどうしてだろうか。理由はただひとつ、読んだ本がその人間の人生の一部になってしまうからである。」

本書前半の読む・書くに続く、後半のテーマは人。そのトップバッターに写真家荒木経惟さんが登場する。彼の写真が無意識に依拠していて、言葉を介在させない表現であることを書いている。おそらくは無意義から発する表現を大切にしてきた詩人との共通項を感じたのであろう。

また大岡信にふれた文では「私は大岡をウェーヴィクルにたとえたことがある。(粒子と波動の両属性を指す言葉らしい)・・・粒子性を西欧社会における個にあてはめ、波動性を日本社会における和になぞらたいのだが・・現実は対立し、矛盾しあうふたつの面から近づいてこそ、その一なる全体性を垣間見させると大岡は確信していて、それはまた詩人であると同時にすぐれた批評家でもある彼の一貫した方法でもある・・・」

この本の最終章は、武満徹に割かれている。「前衛と保守、クラシックとポピュラー・・彼にはそんな差別はない。音楽は権威主義からもっとも遠く、歌う者にも聞く者にも生きる喜びをもたらすものだということを、彼は生まれながらにしてよく知っているからである。」若い頃から武満徹といっしょに作業してきた谷川俊太郎は、彼が作曲をやめて佃煮屋になりたかったり、自己破壊の衝動にかられた発言をしていることを知っている。彼は音楽を制度や伝統の中から生み出すのではなく、原初の静けさから生まれる無垢な音を聞き取りたい渇望から生まれたのだと。

 


今までボクは理屈っぽい本を読んだ後、コチコチになった脳をリセットするために随筆は適していると一人合点を決めていた。しかし今回谷川俊太郎さんの本にふれて、自分の浅はかさに改めて気付かされた。随筆は筆者が気の向くままに書き流した産物ではない。言葉を進める速度はそれぞれだろうけど、身体の深いところから滲み出てきた作品なのだ。

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オヤジのあくび627

谷川俊太郎「風穴をあける」を読む1

 


この後エッセイ集は、ワープロが世に出回り始めた1985年当時の文章から始まる。氏曰く「ワープロで詩を書くことは、ちょっと試みただけであきらめた。詩には散文にもまして意識下のうねりのようなものが必要だからだ。」 また別の箇所で「詩の場合には意識してさまざまな文体で書き分けることを試みているけれど、そういうやり方で散文を書くことは不可能だ。散文は書き分けることができない。散文はただひとりの自分という個にその根をおろしていて、書き分けようとすれば個は分裂してしまう。書いたものに生身の人間として責任を負わなければならないのが散文というものだろうと私は考えているが、その責任の負いようがなくなる、、だが詩はもっと無責任なものだ。それは基本的にアノニムであっていい。個よりもっと広く深い世界に詩は属している。」

引用ばかりで恐縮ですが「短歌、俳句などの定型伝統を選ぶ道を私はとりたくない。七五から離れることで私たちは詩の秩序をを失ったかもしれないが、同時に大きな混沌を得たのだ。その混沌のうちにひそむ可能性を私は信じている。・・・」

谷川俊太郎の膨大な量に及ぶ詩作を支えるスタンスが、垣間見えるような気がします。

よく知られているテレビアニメ主題歌「鉄腕アトム」の歌詞は谷川俊太郎さんによるものです。その谷川さんが童謡について語っています。「大人が子どもに歌ってほしい歌、おとなが子どもにおとな自身の子どものイメージを強制する歌、そしておとなが歌って自分の子ども時代を懐かしむことのできる歌・・大人は、子どもよりもはるかに嬉しそうに童謡を歌います。そのくせ童謡によって子どもを教育しようとします。」何か谷川さん自身の子ども時代の思い出が背景にありそうですが、現在童謡の会などと称した高齢者の集まりが開かれ、そこで童謡を楽しんでいらっしゃる姿を見るとよくわかります。

 


明日の投稿に続きます。

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オヤジのあくび626

やなせたかし他「みんなの夢まもるため」を読む2

 


やなせたかしさんに「ノスタル爺さん」という歌がある。その一節から

 


人生は 短い

昨日の少年少女も

明日は 爺さん婆さん

またたく間に 過ぎてゆく

それなら 楽しく生きよう

すべての人に やさしくして

やがて煙になって 消えていくのさ

 


何とこの歌の作曲者および歌手は、やなせたかしさんご自身なのです。CD発売当時オン年84歳! 本人曰くオイドル(老いたアイドル)だそうです。素晴らしい。

これだけ精力的に仕事をされているのだから、さぞや健康と思いきや、ご本人は「ぼくの体は病気の詰め合わせセット」と言う。ちなみにご趣味は新宿のデパ地下巡りだそうな。

それなのにそれなのに、故郷高知県にできたアンパンマンミュージアム、全国高等学校漫画選手権大会「まんが甲子園」、土佐くろしお鉄道での活動・・やなせさんの活動は、もはやとどまるところを知りません。

最終章では、東日本大震災の後に、リスナーの希望でFM放送で「アンパンマンのマーチ」が流れたことを紹介している。

 


そうだ うれしいんだ

生きる よろこび

 


多くの人々が圧倒的な自然の力の前に、絶望感に打ちひしがれている状況で「アンパンマンのマーチ」に勇気づけられた人がいたのだ。その後やなせさんは、陸前高田市への支援に力を注ぐことになる。やなせさんを陸前高田市に結びつけたのは、一人の女性ファンの熱意だった。彼女の奇跡の一本松の話を、自分自身の現在と重ね合わせて強く心を動かされたのだ。

やなせさんの詩は、夢や希望だけうたっているわけではない。目を背けてはならない現実もリアルな直視しているのだ。上の歌詞に続く言葉は「たとえ胸の傷がいたんでも」。だからこそ多くの人々の心に言葉が届いているかもしれない。

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オヤジのあくび625

やなせたかし他「みんなの夢まもるため」を読む1

 


なんのために 生まれて・・という歌詞の背景には、やなせさんの辛い戦争体験があるようだ。やなせさん自身も招集されて中国戦線を転々とするが、弟さんは特攻隊員だったという。アンパンマンは助けたい人のために自分の顔の一部であるアンパンを差し出す。人のためなら自己犠牲も厭わない。それがやなせさんにとっての正義なのだ。それはただ悪人をやっつけるだけの正義ではない。

ところで、やなせたかしさんの作詞で子どもの頃から口ずさんでいた曲が「手のひらを太陽に」。今でも小学生に人気の曲です。作曲家いずみたくとは、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」で出会うのですね。やなせさんは、永六輔さんにミュージカルの舞台装置を頼まれていたのです。器用でなんでもこなせてしまうやなせさんは、本来は漫画家であるとの自負を秘めながらも、漫画以外の仕事に追われる毎日。そんな悩みと葛藤が「手のひらを太陽に」の歌詞に投影されていると言います。当時小学生だったボクはそんな作詞家の悩みなど露知らず無邪気に大声で歌っていたのですが・・。

アニメとの出会いは、何とあの手塚治虫さんから「千夜一夜物語」の美術監督の依頼を受けたことがスタートなのです!

 


明日の投稿に続きます。

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オヤジのあくび624

竹内道敬「日本音楽のなぜ?」を読む2

 


第十章は「なぜ語尾を震わせるのか」。オペラ歌手のビブラートではなく、邦楽発声でフレーズの最後を震わせて歌う話です。日本語なのに何をのんびり間延びした歌い方をしているのか? ボクも筆者と同じく日本には残響を利用できる演奏環境がなかったためだと考えます。石造りの聖堂の中で得られるエコーが、日本の寺院にはなかったのです。そこで語尾を震わせて「擬似エコー」を楽しんだのでしょう。また筆者が言うように同じ一門のおさらい会であれば「互いにうたっている内容はわかっているので、演者は自分の声を自己陶酔的に味わってよかった」のかもしれません。

声。日本音楽はあくまでも声による表現が主なのです。楽器は添え物・伴奏。錦心流琵琶で「語りに琵琶の音を被せない」ルールを守り通しているのは、楽器が前面に出て目立ってしまうことを禁じている表れなのでしょう。

第十三章は「なぜ聴く機会がないのか」。やはり琵琶を例に挙げれば、マスメディアで琵琶演奏を取り上げているのは、NHKFM「邦楽のひととき」程度で、テレビで定期的に取り上げている番組を知りません。生演奏で聴く機会は、身内や友人に琵琶を演奏している人がいなければ、まず情報がないでしょう。学校の音楽授業で箏を体験できるようになってきましたが、琵琶はまず扱わない。せっかくSNSが普及して情報を共有しやすい時代が来ているのに、発信側のマネジメントが機能していない。でも生演奏に接することができれば、その音色の魅力に惹かれる人はきっといるはず。琵琶を含めて伝統的な音楽文化が命脈を保つには、より積極的な情報発信=広報宣伝が必要だと感じています。

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オヤジのあくび623

竹内道敬「日本音楽のなぜ?」を読む1

 


「第三章  なぜノリが悪いのか」の中で拍子感について書かれています。昔、小泉文夫先生が農耕民族と騎馬民族のリズムが違うことを指摘されていたことが思い出されますが、音楽の中からほとんど感じられないのが三拍子。例えば琵琶の語りは無拍ですが、弾法にはリズムがあります。私が教えていただいた弾法の中で、崩れ3・崩れ4・春風の中には明らかに三拍子の部分が含まれていて、音楽に変化をつける働きをしています。弾法は一つの曲の中で全く同じ音型のものを二度弾くことはありません。常に聴き手を飽きさせない工夫をしてきたのですね。

続いて作曲や稽古について話が出てきますが、そもそもある程度の客観性を保った楽譜を残そうと言う思想がない。だから語り歌う言葉は引き継がれてもその場における節回しは、かなり変化してしまう。

錦心流琵琶でも歌法研究を進めて、これが原型ではないか? という標準タイプを現在作っているところです。

作曲者の名前さえ能でも歌舞伎でも成立初期の間は、おそらく演者が作曲したのであろう程度。稽古も口伝なので、師匠がダメと言えばダメ。頭で理解しないで身体に叩き込め! 的な発想を感じます。およそ非能率的で非合理的な方法で、何百年も引き継がれていることが凄い! また今は何日の何時に師匠のところへ稽古に伺うと言うやり方が一般的だと思われますが、昔はもっと長い時間師匠のところにいて、他のお弟子さんの稽古を聞くのも稽古の内と言われていたようです。ボクの師匠の修行時代辺りまでは、そのように他の稽古を待ちながら聞く方法が生きていたと聞きましたが、今も続いているのでしょうか? また、およそ昔は著作権を争うこともなかったわけですが「他流派、他のお師匠さんのところで引き継がれている曲は演じない」という大原則は今も生きていると感じます。そうして真剣に引き継ぎ、原型を守る努力を続けて来たのですね。

 


明日の投稿に続きます。

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