竹内道敬「日本音楽のなぜ?」を読む1
「第三章 なぜノリが悪いのか」の中で拍子感について書かれています。昔、小泉文夫先生が農耕民族と騎馬民族のリズムが違うことを指摘されていたことが思い出されますが、音楽の中からほとんど感じられないのが三拍子。例えば琵琶の語りは無拍ですが、弾法にはリズムがあります。私が教えていただいた弾法の中で、崩れ3・崩れ4・春風の中には明らかに三拍子の部分が含まれていて、音楽に変化をつける働きをしています。弾法は一つの曲の中で全く同じ音型のものを二度弾くことはありません。常に聴き手を飽きさせない工夫をしてきたのですね。
続いて作曲や稽古について話が出てきますが、そもそもある程度の客観性を保った楽譜を残そうと言う思想がない。だから語り歌う言葉は引き継がれてもその場における節回しは、かなり変化してしまう。
錦心流琵琶でも歌法研究を進めて、これが原型ではないか? という標準タイプを現在作っているところです。
作曲者の名前さえ能でも歌舞伎でも成立初期の間は、おそらく演者が作曲したのであろう程度。稽古も口伝なので、師匠がダメと言えばダメ。頭で理解しないで身体に叩き込め! 的な発想を感じます。およそ非能率的で非合理的な方法で、何百年も引き継がれていることが凄い! また今は何日の何時に師匠のところへ稽古に伺うと言うやり方が一般的だと思われますが、昔はもっと長い時間師匠のところにいて、他のお弟子さんの稽古を聞くのも稽古の内と言われていたようです。ボクの師匠の修行時代辺りまでは、そのように他の稽古を待ちながら聞く方法が生きていたと聞きましたが、今も続いているのでしょうか? また、およそ昔は著作権を争うこともなかったわけですが「他流派、他のお師匠さんのところで引き継がれている曲は演じない」という大原則は今も生きていると感じます。そうして真剣に引き継ぎ、原型を守る努力を続けて来たのですね。
明日の投稿に続きます。