オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ピアニスト辻井伸行が描き出す世界 3

ピアニストのイメージと言うと、どんな人が連想されるだろう。「気むずかしくて神経質そうな人」とか「自分に厳しい孤高の人」とかを思い浮かべる人もいるだろう。そんな人が、ベートーベンのソナタをしかめっ面をして弾くと、何だか恐れ多いような、とても有り難いものを聴かせていただいているような錯覚に陥ってしまうことがあり、それがピアニストという職種を妙に権威づけていたこともあるだろう。

 しかし、辻井さんのピアノからは、およそ偉そうな、驕り高ぶったような音楽は、聴こえてこないのである。例えばショパンの「英雄ポロネーズ」。もったいぶって弾けば、それなりに格好つけてみたり、威風堂々とした風格を漂わせることができそうなフレーズが随所にあるが、辻井さんは決してそのような弾き方をしない。

 辻井さんの「英雄」は、決して戦争に勝った英雄や王侯貴族の類ではなく、身近なところにいながら、大勢の信頼と尊敬を集めている「英雄」なのだ。それは、反面彼が生まれてこのかた、英雄の肖像画や映像を観たことがないことと関連づけられるのかもしれない。彼は彼の心の鏡に映し出された「やさしい友達のような英雄像」をピアノで描いているのである。


 追記 昨日、マイケル・ジャクソンの訃報が世界中を駆けめぐった。音楽を聴かせるタレントが映像を見せる音楽タレントへと変化していった時代を創り上げていったマイケル。とりわけ「踊りを見せる」ことにかけて、マイケルは、ずっと「みんなの憧れ」であり続けた。彼のムーンウォークを真似していた男の子の数は、ピンクレディーの振り付けを真似していた女の子の数に匹敵することだろう。
 最近では、真偽のほどは、ともかく理解に苦しむ挙動がたびたび報道され、ファンを惑わせていたが、晩年のエルヴィスがそうだったように、偶像に奉りあげられたタレントの末路は、ひたすら偶像を演じるしかない自分に堪えていくあまり、かえって孤独な世界に押し込められてしまうのかもしれない。
 今日一日、世界中のマスメディアは、様々なコメントを挟みながら、マイケルの映像を流し続けることだろう。「マイケル」という一個人の活動を大きく超えた社会現象が、いったい何だったのか?を振り返りながら・・。