鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」を読む3
禅と儒教
禅は、インド仏教が元になっているとはいえ、中国を経由して、かつ中国で儒教と半ば一体がしながら、南宋の頃に日本に持ち込まれた。禅とは、一切の理屈や言葉を否定した境地なので、グチャグチャ言わせない儒教倫理と結合しやすかったのでしょう。
朱子学と言えば、江戸幕府が身分制度維持、秩序維持のために、奨励したように理解されているが、本書では朱子自身が南宋に身を置き、情けない官僚の姿、国を北方民族に奪われる様を見て、己の名、位、分=役割、立場、責任を弁えよと諭したらしい。
禅と茶道
茶道と言えば、千利休の名前が思い浮かぶのですが、利休以前の人々も茶の湯を楽しんでいる。お茶を日本に持ってきた栄西禅師、中国流の作法を教えた大応、一休の弟子で日本的な趣味として昇華した球光、その後にまとめ役として利休が登場する。一つの文化の熟成に多くの時間と人の関わりが必要なのは、どれも同じ。
和敬清寂。茶道の精神のキーワードとも言うべき、この四文字熟語に沿って、大拙は解説していく。とりわけ深入りしているのが、寂=さび、わびについて。この章に大拙自身が強く警鐘を鳴らす一節が出てくる。茶人のもてなしなど忙しい現代人には不可能ではないか? との問いに対して「悶える心には真に生を楽しむ余裕はなく、ただ刺激のために刺激を追って、内心の苦悶を一時的に窒息させておこうとするに過ぎない。主要な問題は生活はゆったりした教養的享受のためにあるのか、快楽と感覚的刺激を求めるためにあるのか、どちらだろうかという点である。この問題が決まった上で、必要ならばわれわれは現代生活の全機構を否定して新しく始めてもいい。われわれの目的は、終始、物質的欲望と慰安の奴隷となっていることではない」80数年前に出版された本書の言葉は、今その重みを倍加して響いてくる。覚悟というか、なぜ本書を著したのか? がここに集約されている気がする。