オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび250

檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる」


「なんでもあり」の時代がやって来た!と感じたのは、1990年代だろうか? その頃も小学校の先生をしていたわけですが、学校とか教師が既成の価値観や虚しい権威に寄りかかれば寄りかかるほどに、砂上の楼閣のようにボロボロに崩れていってしまう過程を自分なりに感じていました。近代はもはやおしまいでポストモダン丸山真男鶴見俊輔らの言動からイメージされる市民像は過去のもの・・らしかった。

もうそれから20年以上の時が流れてしまった。

ドゥルーズの立ち位置を理解するために、デリダ差延という造語が有効な気がする。二人とも現時点における不在を語っているのだけれど、デリダは他者を想定して、何らかの関係(因果?)から常に自分がズレていってしまうイメージを語ったのに対して、ドゥルーズは内側から変わる姿をイメージする。

まず卵の例えを出す。何に変化していくか? 予想がつかない卵こそが自分という個体なのだ。次にメロディーの例え。その音で停止しているとメロディーにはならない。時間の流れとともに次の音へ繋がっていくからメロディー! これがベルグソンから引き継いだ生の哲学という。そこでは立ち止まって何かを意味づけ、概念として枠に当てはめてしまう作業は否定される。常に流動的でそれぞれの個体が多様性を維持している世界観なのだ。

だから本書の副題にもなっているが、問題は解かれるものではなく、創造されるべきもの。それは解いてしまう。答えがあることに価値を見出さないことだろう。

歴史とは問題を構成することの歴史であり、生命とは問題を提起する能力だともいう。眼の例。軟体動物と脊椎動物が分かれた時に、まだ眼はない。けれども光を求めるという問題を解く過程で、それぞれに眼が進化した。

タマホコリカビという原始動物がいて環境に応じて、実に様々な変化を見せるのだが、それこそが生物として、問題を解く過程なのだろう。

それにしても私たちは、子ども世代や孫世代に、何とも解きにくいし、解けない様々な問いを突きつけてしまったことか! 問題を立てて、ポジティブに生きる元気を、せめて伝えたい気がする。