オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび437

柄谷行人「倫理21」を読む2

 


括弧に入れておく話が出てくる。それは認識の脇に置いておいて的な意味と捉えておこう。以下引用→(われわれは自由を括弧に入れたときに自由を見出し、自然必然性を括弧に入れたときに自由を見出す。人が何かをやってしまったら、それがどんなに不可避なものであろうと倫理的に責任があるのは「自由であれ」という当為があるためです。彼に事実上自由がなかったにもかかわらず、自由であったかのように見なさなければならない・・行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新たに、みずから始めるかのように見なしてよい)裁判で懸命に弁護に努めている方々には、厳しいかもしれないが、あくまでもこれはカントの考えたことを元に著者が倫理について考えたことなのです。

「自由であれ」という当為は、自分自身だけではなく他者へ手段ではなく目的として、さらにはまだ見ぬ未来の人々に向けても同様であると言います。

また宗教は道徳性を実現するために必要であれば許容されるというカントの考えを紹介しています。そしてコミュニズムは、倫理的な問題から出発していたことも。国有化経済と同一視しているのは、レーニン主義の覇権のよるのでしょう。晩年のマルクスは、オーウェンによる消費ー生産協同組合を評価していたのですね。自由で平等な生産者と消費者の連合イメージです。第十二章で筆者はSDG sの先駆けとなるような話をしています。未来の人々に「自由であれ」と願うのです。