宇都宮芳明「ヤスパース」を読む2
人間を超えた超越者を想定して実存について語る哲学者を有神論的実存主義と呼び、キルケゴールや今回のヤスパースはこちらに篩い分けられる。反対に超越者などいないという立ち位置を無神論的実存主義と呼び、ニーチェ、ハイデガー、サルトルと続く。
ヤスパースは、神はどこまでも自由な実存に対してのみ存在するとした。自由は神から人間に委ねられているのである。もちろんここで言う神は教会で教義の対象としている神的なものとは違う。ヤスパースは子どもの頃から各種の権威に敏感で悉く反抗してきた人なのだ。
もう一つキルケゴールやニーチェとの違いは、理性による自覚。理性と実存の緊張関係に言及しているところ。実存は突き詰めるほどに理性から遠退いていく傾向があり、キルケゴールもニーチェも理性に対して否定的な立ち位置であった。(ニーチェにおいてはアポロン的存在とデュオニュソス的存在として語られていた)けれど理性に頼らなければ、私たちは自分の居場所を水平的に眺めて自覚できない。実存が縦軸とすれば理性は横軸だとヤスパースは考えたのだ。
哲学者として奇異に感じるかもしれないが、ヤスパースは世界の歴史段階に大いなる関心を示して、紀元前500年頃に洋の東西を問わず、偉大な思想家が次々に現れたことに注目している。エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の古代文明は、大いなる技術革新を人類にもたらしたが「技術的な合理化は、本来の反省を欠いた無自覚性に対応する」と言い、まるでIT化が進んだ現代の私たちの精神状況を言い当てているかのようです。
最後に、弟子筋のハンナ・アーレントが全体主義を分析したように、ヤスパースも全体主義を警戒し世界平和を願う人だった。真理を求める(=中身のある)自由な実存こそが平和が実現する前提であると。そして真理とは個人の独りよがりではなく、他者との交わりの中で確認していくものなのだ。ヤスパースの願いに人類がどこまで近づけたのか、ニュースを見るにつけて少々悲しくなってしまうけど。