環境と音楽について語り合っている箇所があり、日本で組み立てたパイプオルガンの調整が大変な話が出てくる。西洋音楽の響きは、乾ききった石造ホールで育まれたものだ。アカペラだって合唱だって、残響が巨大空間に響く環境で生まれた。翻って木造寺院から生まれた日本の声楽=声明は、残響を前提としていない。むしろ母音の語尾を引き延ばすことで、残響がない環境を補っているかのようだ。
話題はどんどんジャンプして、情報化と情報処理の違いについて養老さんが言及する。作曲家久石譲さんがやっていること、音楽をつくって人に伝え演奏できるようにすることは情報化で、発信された情報を整理するのは情報処理なのだと。本の前の方に「クオリア」(.=言葉で掬いきれない感覚)についてふれているが、発信された情報を加工整理してわかった気になっている人への警句かもしれない。
感覚の話をもう少し。よく「百聞は一見にしかず」というが、どうなのか。時空把握について、空間把握は一瞬の視覚優位、時間把握は聴覚が優位で論理性がある。そして「メロディーは時空の把握装置ではないか?」と久石さんが言う。単なる思いつきから曲へと音楽を構築していく過程を生業とされている久石さんならでは、作曲家視点からの発言でしょう。
音楽学者小泉文夫さんのフィールドワークの中にスリランカの人々が出てきて、彼らの歌は二音しかなくて、しかも音の高さもリズムもバラバラなのだけど、誰かが一生懸命歌っていたらこちらも一生懸命歌わなくちゃという合唱? か紹介される。音楽とか歌って、元々はそうだったのかな? と感じました。