ユーラシア大陸からちぎれてしまったかのように海に浮かんでいる島々がある。我が日本列島もその一群である。この島々に少なくとも一万年以上前から人々が住み着き、文化を形成していた。彼等は統一国家などという巨大な統治機構を必要としていなかった。村落単位でお互いに助け合いながら、日々が平和に暮らしていければ、それで十分だったのだ。だからこそ大きな戦もなく、八千年以上の時が流れる。
しかし、貯蔵可能な食料である米=稲作が伝わると富が形成され、貧富の差が生まれてしまったらしい。それでもまだ、人々は自然の脅威の前に日々おののきながら生きていたので、神の祟りを祓い、未来を予言する占術師を敬った。おそらくは女王卑弥呼のカリスマ性は、その辺りから生まれたのだろう。自然の猛威になす術がない人々が、自然崇拝に至り八百万の神を信仰していたのは、頷ける話である。
文字は、記録を必要としている文化から生まれる。肥沃な土地で農業が営まれるようになると、いつ何が起こるのか?暦と記録するための文字が必要となる。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河に共通している。日本も稲作を学ぶと同時に文字が持ち込まれたのだろう。ただし、現地語発音は、漢字の音読みに蹂躙されることなく残った。つまり訓読みである。アルファベットがそれぞれの地域でいろいろな発音に変化することに似ているが、日本の場合、現地語発音としての訓読みと中国発音の音読みの両方が並立して、現代に至っていることが、特徴的だ。さらには、書きづらい漢字を崩して、発音記号としてのひらがな、カタカナを発明してしまう。自分たちが使いやすいように改良する伝統は、平安朝の頃から息づいているのだ。