田中優子「江戸の音」を読む
広辞苑によると音楽は「音による芸術」。ここからはボクの理解だけど、音楽のうち西洋の片隅で進化発展した表現は、理路整然とリズム・メロディー・ハーモニーを奏で、世界中を圧倒的している。ベリーによる開国以降の日本も圧倒された国の一つで、近代学校システムを作る際に大慌てで「音楽科教育」を始めたのは、ご承知の通り。
本書のタイトル「江戸の音」は、未だ西洋音楽的な進化を経験していない日本の音に言及しようという意気込みなのだ。
まず生活の中の音。爪弾く、口ずさむ、遠音を美しいと感じる感性は、芸術として一段高いところへ音楽をまつりあげてしまった古典派以降の西洋音楽とは違う。すぐそばに楽器の音や歌があったのだ。また結局はノイズでしかない「さわり」や拍節感のある休符では表せない「間」を大切にする傾向も日本の音の特殊性だろう。曲の形式も巨大な構造物を組み立てるような設計図はない。武満徹曰く「始めも終わりもない」形式なのだ。
本書では、日本文化の底流に変化を面白がるダイナミズムが流れているという。正解や辿り着くべきゴールが設定されているのではなくて「あっ、今いい感じじゃん!」の一瞬にその時の答えがある。芭蕉の言葉が出てくる「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」これは我と対象が離れないようにして、その時になったら何も考えないでスパッとやっちゃえ! という教えなのだろう。思い切りのよさは、瞬間的な音が全ての琵琶や尺八・三味線演奏にも通じている気がします。
本書への登場回数が最も多い楽器は、やはり三味線なのですが、三味線という楽器の誕生とその後の流れを決定づけ(お座敷と浄瑠璃)、さらには小唄を歌いはじめた場面に、石村検校を始めとする盲目の琵琶法師たちが関わっている。いつまでも平家ばかりやっていても仕方ないなどの諸事情があったのかもしれない。江戸時代初期の琵琶法師たちの思いを突き動かしていたのは「伝統と革新」だったのかもしれない。