オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび571

門井慶喜徳川家康の江戸プロジェクト」を読む

 


大河ドラマ「どうする家康」で描かれている通り、家康公の一生はギリギリの判断を迫られる場面の連続であった。江戸に本拠地を定めたのもその一つだろう。秀吉から関八州に国替えを命じられた家康は、なぜ江戸を選んだのだろう? この地域は湿地帯が続き、およそ大都市建設には不向きだったのに・・。そしてまず手を付けなければならなかったのは、水路のコントロールでした。

渡良瀬川と聞くと現在は群馬県を流れている川というイメージですが、その当時は今の江戸川の水路を下り、東京湾まで流れていたのですね。さらに利根川は、今は千葉県銚子市が河口ですが、何とやはり東京湾に注いでいたのです。銚子に向かって流れていたのは鬼怒川だったのです! この大工事は伊奈忠次以下伊奈家四代に渡って引き継がれました。

また、新橋駅のそばに汐留の高層ビル群が聳えていますが、ここに海からの潮が江戸城へ逆流しないための堰があったから汐留なのですね。

次が飲料に適した水の確保です。この事業には大久保藤五郎忠行が担当しました。忠行は菓子を家康に献上していたのですが、菓子づくりの適性を水道工事担当と結びつける人事がすごい。忠行が当初水を引いたのは小石川からでしたが、江戸の人口が増えたので内田六次郎と共に井の頭池から水を引くことにしました。これが神田上水です。城のお堀を跨ぐための橋が水道橋で、お茶の水命名者は家康だと伝えられています。上水のメンテナンス費用を捻出するために今で言う水道料金を集めました。

元々江戸は寒村でしたから、職人がいません。貨幣鋳造の技能は京都から来た橋本庄三郎が力を発揮します。家康は秀吉のような大判ではなく小判を作らせます。小判は関ヶ原の戦いの後、慶長小判として全国に流通し、大阪の陣の後、橋本庄三郎は主家の後藤を名乗ります。後藤屋敷があった場所は、現在日本銀行が建っている場所だそうです。

水運=流通、飲み水、通貨・・これらを整えて、やがて江戸は徳川の時代に世界最大の都市となる。家康が構想した京都・大阪に引けを取らない都市づくりは見事に成功したのです。

今後オンライン化で人と人とが直接会う機会が減るであろう時代にも巨大都市が必要なのか? ひょっとすると仮想空間上に都市が出来上がるのかもしれない。家康が蘇ったらそんな現在を「どうする」かな?

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