オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび618

畑中圭一「紙芝居の歴史を生きる人たち」を読む2

 


画家の佐藤正士良氏の聞き書きでは、氏が戦前東宝映画で働いていた話が出てきて、遠近法やモンタージュなど映画から影響を受けた技法が紙芝居の絵にも活かされていると語る。話の中には武部本一郎の名前も出てきて、錚々たるメンバーが紙芝居に関わっていた時代があったことがわかる。映画になぞらえるなら、演者は一人で演出と俳優をこなしているわけで、こんなに演じる甲斐があり、独自の劇空間をアドリブも含めて創造できる表現が今や風前の灯なのは実にもったいない。

しかしながら、仕事として生活を支えるとなると様々な課題がありそう。子どもが学校から帰ってくるのが、午後3時。その時刻に団地の広場やお寺神社の境内を借りて演じるとして、一体何人集まるのか? 雨が降っていたら仕事にならないし、売り物の飴も駄菓子屋さんが競争相手なので「紙芝居」を選んでもらえる魅力が必要でしょう。ボランティアではあるけれど、ボクのように学校の読み聞かせで紙芝居を演じるくらいしか生き残るスペースが残されていないのかもしれません。

前回の投稿で富田博之氏の「戦争中の紙芝居活動について」に補足したい。学校で演じられる教育紙芝居と近所の広場で演じられる街頭紙芝居があって、鈴木常勝氏によると街頭紙芝居を俗悪なものと見下す傾向が合ったという。その一方で教育紙芝居は戦争遂行に利用され、その絵に被害者視点はなかったという。富田氏が批判していたのは教育紙芝居が当時の国策に都合よく利用されていた事実について自己批判がない点であろう。鈴木常勝氏は、学校を離れた教育学や子ども文化論が成立しにくい状況も指摘する。話は逸れるけど、そんなことだから不登校が増加する現在、学校以外からの視点が持てないのだろう。

容易に推測できるが、高度経済成長・テレビの普及が紙芝居の衰退と関連していることは間違いないだろう。紙芝居の時間空間は「チロリン村」や「ひょっこりひょうたん島」に取って代わられたのであります。やがてファミコンが、携帯型ゲーム機が登場して、子どもたちはテレビにさえ見向きもしなくなる。広場でいっしょに紙芝居を見ていた仲間は、ゲーム機の通信機能に変わってしまったのだ。本書では共有していた三間=時間空間仲間の変化と論じている。

昭和5年に生まれた紙芝居の歴史は、100年足らず。栄枯盛衰は事の常だが、このまま歴史の襞の中に消えていくのは惜しい。実は手作り紙芝居コンクールという催しがあり、ボクの地元横浜市でも開催されている。紙芝居の灯を受け継ごうとする動きは、続いているのです。

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