ぼくのささやかな指揮者論
先日、久しぶりに小学生の合唱を指揮した。指揮を終えると即座にそも出来栄えを確かめたくなるのが人情のようだが、指揮者の立ち位置で聴こえている響きと会場で聴こえている響きは異なり、こんな音楽が響いているんじゃないかなという想像でしか答えられない。
むしろ演奏した人自身や会場で聴いていた人に尋ねた方がいいのにと思う時もある。
ただ自己評価的な感想であれば、少しはつぶやけるわけで「やはり指揮者は楽しい」のである。当たり前だが、指揮者が変われば音楽が変わる。いろいろご批評を承ることは今後の勉強にはなるけれど、その日の演奏については「私が指揮をしたらこうなってしまいました」以上のことをなかなか話せない。
話は少々飛躍するが、だからこそ「こういう音楽をやりたいからこの指揮者」という指揮者の選び方は、とても重要だ。偉い指揮者ならオールマイティーかといえば、やはり守備範囲はあるのだ。極端に守備範囲を限定していた指揮者として、カルロス・クライバーがいるが、大指揮者フルトヴェングラーだってやはりドイツものをやるときの方が本領を発揮していたと思う。
「私が指揮をしたらこうなってしまいました」そこにこそ新たな演奏の地平が拓けるのかもしれない。
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