オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび615

菊池清麿「評伝 服部良一」を読む2

 


戦前の良一作品を代表する曲が、昭和12年淡谷のり子による「別れのブルース」。低いGから歌い出すため、本来コロラトゥーラソプラノの淡谷のりこは一晩中タバコを吹かして低く魂がこもった声が出るしたという。ボクサーの減量を思わせるような凄まじいエピソードです。

本書は副題が「日本のジャズ&ポップス史」とされていて、服部良一さんの人生を追いかけた文章の中に往年の名プレーヤーが登場する。その一人がトランペッターの南里文夫さん。横浜元町商店街から代官坂を上がると南里文夫さんが活躍していたダンスホール「クリフサイド」がそびえている。ボクはこの坂の先にある元街小学校に勤めていたことがあるのだけど、元街小のスクールソングをいくつも作ってくださった泰地さんが南里文夫のバンドでサックスを担当していた方。このクリフサイドで演奏されていたという話をふと思い出しました。

思い出話をもう一つ。およそロックは嫌いだった亡き父が、生前なぜかジャズには詳しかった。この本を読んでジャズのリズムに日本中が熱狂していた時代があったこと、そしてその時代が父の青春時代と被っていることがよくわかりました。

寄り道話をやめて服部良一の戦中時代に戻そう。コロンビアの慰問団の一員として上海に赴く。当時の上海は、舞台や映画でお馴染みの「上海バンスキング」の世界。この頃、李香蘭に「蘇州夜曲」を提供しています。中国の情景がイメージされる名曲ですね。

戦中のエピソードとして作曲R.ハッターという名前。誰のことやらわからないこの名前は戦中「軟弱な歌詞!」による曲が発禁処分となり、日米開戦前、英語の歌詞はまだOKであった時代に服部良一が「ラブズゴーン」などの曲で使っていた別名であります。何と戦後リバイバルで出した「夢去りぬ」が盗作ではないか? と話題になったことがあるそうな。同一人物なのに・・・。

 


明日の投稿に続きます。

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