オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび684

養老孟司の〈逆さメガネ〉」を読む

 


養老さんは、東大紛争の頃、助手だったそうで、あの紛争の最中に学内にいて様子をリアルに見ていた。本書で改めて問いを投げています。結局学園闘争とは何だったのか、誰が説明して、誰が責任を取ったのか、全てがうやむやなのは、日本の敗戦後と似ていると。

養老さんは東京大学に入る前の話が出てきます。現在は大船から長い坂を2度登ったところにある名門栄光学園です。養老さんのころも今も休み時間になると全校生徒が上半身裸になって屋外で体操をしているらしい。冬は寒そうですね。私立の男子校だからできるような気がしますが、部屋にこもってゲームに耽っているより遥かに健康的でしょう。栄光学園の話をもう一つ。当校はあのザビエルが所属していたイエズス会が運営しているので、いわゆるミッションスクールなのですが、よい社会人を育てるために先生方の無償のボランティア精神を発揮する。校長先生が「よいことは知られないようにやりなさい」とおっしゃっていたそうです。

子どもとふれあう母親の大切さを力説されていますが、さらに保母さん(この本が出版された2000年頃は保育士という言い方が定着していませんでした)の重要性にも言及されています。教育について教職員の勤務実態と処遇が昨今話題になってますが、ボクは最終的に一人ひとりの子どもの成長とどう向き合っていくのかという話に尽きると思います。

養老さんが東京大学を辞める頃の話。「若い学生との間隔が開いた、話が通じなくなった」と感じたエピソードを紹介しています。オウム真理教の信者が「尊師の公開実験に立ち会ってください」と訪ねてきたのです。養老さんが若者がすっかり変わってしまったと捉えたのも無理はありません。

若者についてわからないままでよいわけがないと養老さんは別の大学に勤め始めます。知ることの意味が変わり、現代社会の前提が「変わらない私」になってしまったからだ考えます。

養老さんが「都市と田舎」「意識と身体」「情報と自分」をセットにして語るのは、ほかの著書も読まれた方にはお馴染みの考え方でしょう。ボクは「変わらない自分」は、「変わりたくないし、変わると困ったことになる」意識が肥大して形成された気がします。変化成長を前提として次世代を育てているはずの教育にとっては、とても弱った話です。

人が育つというのは、どうなるかよくわからない話なので、こうしたから必ずこうなるというものではないでしょう。農家が丹精込めて育てた作物だって、気の毒ですが大きな台風が来ると大変なダメージを受けてしまう。人間だってその人が育ってきた過程での経験が形成に大きく影響する。ボクの世代は、子どもの頃からスマホやパソコンにさわっていたわけではない。インターネットで瞬時に世界中の情報が把握できる時代には、もういい中年おじさんになっていた。だからと言って今の若者の考えていることがよくわからないと匙を投げるのはまだ早すぎる。

ただの昔を懐かしむ話ではない、若者への語りかけがボクにも少しはできるんじゃないだろうか。そんな可能性を模索していきたいと思いました。

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