オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

マクロ教育とミクロ教育3

今の教育が機能不全に陥りがちな理由は、マクロ教育がミクロ教育の実態を十分に把握していない。施策に反映されていないところだと思う。経済なら日銀が消費傾向などを把握して、金融政策に反映させている。教育にだって中教審はあるけれど、失礼ながら総論に陥りがちな感じで何だかニーズに上手く対応できていない気がします。
制度的にあるいは予算的には、少ない予算で教育という最も重要な投資事業を怠ってきたツケがまわっている。相変わらず一クラス40人に担任一人のままだし、現場で様々な工夫を凝らしてみても、一人ひとりの個性を引き出すカリキュラムがどれだけ準備されているか、疑わしい。
マクロ教育については、全く予算が足りない!当然人も足りない!結局は、そこに行き着いてしまう。

学習に限らず、人間関係の教育についても。
今後大人社会に入っていく子どもたちと、何を考え何を大切にすべきなのか?話し合いたい。それを道徳の時間に置き換えることに私は懐疑的だ。道徳の時間に教える価値観は、過去の時代に大切にされてきたものの伝承だ。これだけ価値観が多様化している中で、今そして未来を生きる子どもたちの心にどこまでヒットするのか?
戦前の修身教育には代わって戦後社会科がスタートした時には、道徳もちろん特別活動もなかった。それらの領域で育つ力は、日常の切実な問題解決を通してこそ身につくと考えられていたのだ。何を育てようとしていたのか、原点に立ち返ってみてはどうか?

具体的な場面から引き起こされる悩みや葛藤を通して、人間どうしの付き合い方について考える。例えばセカンドステップなどの実践がすでにいくつかの学校で実践されている。それを共有できる時間が十分に保障されていれば、いじめ等の子どもたちが抱え込んでいる問題について、深刻化することがもう少し避けられたのではないだろうか。

マクロ教育とミクロ教育2

ところで時代を遡り、我が国に学校というものがなかった時代。いや、世界にもなかった時代は、すごく昔の話ではない。公教育が成立したのはせいぜい250年くらい前の話。おもに初等教育に限るけれど、ヨーロッパでは家庭教師をつけて我が子を教育する伝統があった。ほら、サウンドオプミュージックのマリア先生だって!日本は、武士の子は藩校で漢学とか学んでいたけれど、庶民のために寺子屋があって、それぞれの子に応じた柔軟なカリキュラムで教育していた。
教育とは、それぞれの子に応じて、その子が必要とする教育を考えることが、第一義で大切なのだ。これをミクロ教育の視点と呼ぶことにしよう。
ところが国単位で教育制度が整備され、国民が皆同じ教育を受ける権利が確立してから、皮肉なことに個人の事情より国で定めた教育内容・教育方法が優先されるようになってしまった。悪名高き偏差値教育も、同じ教育を受けているはずだから同一の基準で学力を測り、横並びに順位付けしてよいという発想から来ている。もし一人ひとりが違う内容を学んでいたら、偏差値教育は成立しない。

マクロ教育とミクロ教育1

学校に我が子の教育をある程度委ねる。学校がどのような教育を行うか?学習面に関して、その指針とされているのが、ご存知学習指導要領であります。
新学習指導要領では、外国語教育やプログラミング教育が導入される。そんなこと知ったこっちやないよ!我が家は関係ございません!は、通用しない。トップダウンで日本中一斉なのだ。ただでさえ、多忙を極めている先生方は、今以上に大変なのだが、ご苦労様でございます。
この国単位で、決められている教育内容をマクロ教育と呼ぼう。国にとって未来を切り拓く力は、教育に頼るしかないので、ここまでは、子どもたちに教えて、できるようにするという基準が決められているのは、理解できる。
そうしないと、地域ごとに学校ごとに、いわゆる学力とされているものが、バラバラになってしまうからであります。それでは何のために義務教育を整備しているか?わからなくなってしまいます。

よみがえる 美空ひばりを見た!

男声合唱団の帰り道、東西線の中でHさんが美空ひばりの歌声をAIで蘇らせるプロジェクトが進んでいると教えてくださった。美空ひばりは不世出の天才歌手で、恐るべき歌唱技術自在に使いこなす人なので、そんなことができるのだろうか?と思ったが、Hさんが高次倍音の分析などについて、話されるのを聴き、何だかすごいことが進行しているのかもしれないと感じていた。
そして12月17日19:30からNHKで放映された「よみがえる 美空ひばり」を見た。日頃ヴォカロが歌う音楽に対して、距離を置いていた私の頑なな偏見は、美空ひばりの映像が歌う「あれから」によって、打ち砕かれた。早い話が感動してしまった。上手い!裏声の混ぜ方、声の押し方、微妙な間合い感…AIがここまでできる時代がやってきたのだ!
もちろんコピー元の美空ひばりが凄い歌手で、新たに作られた「あれから」がとてもいい曲だということは、最大の加点要素だろう。けれど、ここまで歌が再現できるとは!
つまり綿密にプランを練れば、コンピューターによって様々な歌い方が可能であり、最も人の心を揺さぶる声とは?歌い方とは?という課題が分析できるのだ。う〜ん、 生演奏でその時そに場でしか、表現できない歌に甘えていてはいけないのかもしれない。
人の思いを科学がサポートする時代と、秋元康がまとめていた。確かに今回の美空ひばりをよみがえらせるプロジェクトについては、そうかもしれない。だけどだけどですよ。人間が思いつかない歌唱技術や、素晴らしい曲をコンピューターが先に作ってしまうことだって十分にあり得るじゃないですか!
大変な時代がやってきたと、 番組の感動にしみじみ浸っている場合じゃないと思う。
本当に人間がそこにいるからこそ、初めてできる、成し得ることを考えていきたい。

頑張れ!と言われても…3

頑張ったなぁ、頑張ってしまった…は、あり。

PDCAサイクルって、まだ使われている言葉なんだ!と、この前の男声合唱団練習でネタに使われているのを聞いて思った。
頑張れ!と言う場面で、少し慎重になったらいいんじゃないの?という主旨で書き始めたのだけれど、頑張ったなあ…とか頑張ってしまった…は、PDCAのCの場面で有効だと思う。なぜなら、その時点から軌道修正が可能なはずだからである。
時代によって、人によって頑張り過ぎの物差しは違う。教員を40年以上やってきて、確かに超過勤務の連続が常態化しており、過労死ラインなんて越えっぱなしだったけれど「仕事は身体に毒」「教師が楽しくなくて子どもが楽しいはずないじゃん」が座右の銘だったので、特に若い頃は学校で仕事をさせられているというより、子どもたちと楽しい時間を共有している喜びの方が勝っていた。(そんな先生を、子どもたちはどう感じていたか?よくわからないけど)
やがて、マクロな視点から教育に寄せられるあまりにも多様な需要と課題が押し寄せ、現代の教師を追い込んでいることは確かだろう。
個人的には、アメリカのように教師は授業するだけで帰ってしまう方式でいいと思う。それ以上のことをフォローできるほど、現在の学校教育には予算が投入されてはいない。現在の教育課題に対応するためには、教員の定数を改めて、最低でも1.5倍のスタッフを配置するべきだと思う。こんな教育論をぶっているのも、頑張ってしまったなぁと感じているからなのだろう。
頑張るとは、自動車に例えればアクセルをふかすことで、当然燃料は早く減る。省エネ運転は、ほどほどのスピードで走るので、燃料は長持ちするが、目的地に着くのは多少遅くなる。それまでの頑張り方を振り返るのは、自分の運転を振り返ってみることに似ていると思う。

頑張れ!と言われても…2

頑張れと言われてもできないことはあるさ。

私のオリジナル曲「雨上がり」の2番。歌詞は次のように続く。「ぼくはぼくでぼくだけの生き方を探したい。」(えっ、ご存知ない?港南台アカペラシンガーズで歌っていただいている曲なのです。2番はあまり歌わないけれど…。)
格差、ハラスメント、差別…すべて個人の力では解決できない課題を含んでいる。新自由主義とやらの影響で、自己決定自己責任が声高に語られた時代があったが、そもそも選択できる環境がなければ、自己決定どころではない。某大臣の「身の丈」という極めて上から目線の発言は、この流れの中にある。困ったものだ。
私は個人レベルで解決できることは、できる範囲で解決するべきだと思う。しかし、自分で自分の課題を解決していけることと、どう足掻いてみても、個人の力では解決できない問題があり、差別問題は後者の社会構造的に個人が乗り越えることができない問題だからこそ、大問題なのだ。
引きこもり、不登校ニート…が社会問題化しているが、実はボーダーライン上に、いつそのようになってもおかしくない人々がたくさんいると思う。怖いのは、これら問題を個人レベルで解決できる問題なはずと思っている人が少なからずいることだ。例えば以下のような発想でいいのか?「自分が自分なりに身を置ける場所を探し、そこで自分のペースで生きていければいいと思う。ただし、法を犯したり、他者に不快感を与えたりしない範囲である。」私はそれではダメじゃんと思っている一人であります。

頑張れ!と言われても…1

頑張れ!をシャワーのように浴びてしまう場所と連射し続ける人

頑張れ!と言い続けることで、ポテンシャルが引き出せると思い込んでいる人々が棲息している場所がある。とりわけ学校、塾、スポーツ系の教室に多く存在し、連射し続けている気がする。頑張れ!と言われたくらいで、力が発揮できるくらいなら、何の苦労もいらないと思うのですが…。
むしろ頑張れ!と言われたことで追い込まれてしまう人(とりわけ子ども)がいることに目を向けてほしい。本人自身がやりたいこととか適性とかを配慮しないで、必要以上に負荷をかける。本当に頑張るべきことは何なのか?何を通して達成感を得られるのか?は、他人から与えられるより、本人自身が一生かけて探し続けていくものだと思う。
教育をエデュケーションの訳とするなら、元々の意味は「引き出す」ことにあるでしょう。やる気にさせる。やってみようかなぁという気になれば、あとしばらくは大丈夫なわけで、そのために「頑張れ!」という魔法の言葉がいつも有効とは、限らない。

かつて昭和30年代後半からの高度経済成長期に、まだいい学校→いい会社→いい生活が信仰されていた時代に、「頑張れ!」「勉強しろ!」と叱咤激励されて、詰め込み主義教育を受けた人は多いと思う。頑張りさえすれば世の中何とか渡っていけるのだろうか?結果「24時間働けますか?」などと本気で頑張ってしまい、現在の働き方改革にツケが回っているのは、ご承知の通り。確かにモーレツに働き、経済的にある程度豊かな社会が実現したと思う。でもそれをいつまで続けなければならないのか?