「上を向いて歩こう」という日本人なら、だれでも知っているような名曲があり、日本人でなくても「スキヤキソング」という別名であれば、海外で最も有名な日本の楽曲と言えるだろう。
さて、このカヴァーを他でもない忌野清四郎が歌うとどうなるか?歌詞は、永六輔さんの書かれた詞に間違いないのだが、旋律は坂本九の歌ったものとおよそかけ離れている。作曲者の中村八大先生はジャズピアニストとしても高名な方だが、忌野流の「上を向いて歩こう」をどう感じておられただろう?(もし、お聴きになっていれば・・の話だが)
元歌と比較して、すぐわかることは、「音符を伸ばしたい=つまりは朗々と歌い上げる」という歌手ならばだれしも持っている欲求に対して極めて禁欲的であるということだ。聞こえてくるのは、ノリのためには旋律は二の次三の次・・やりたいのはロックなのであって、別に音楽の授業で教わった歌い方なんかじゃない!という一途な姿勢である。
朗々と歌いたい!声を響かせたい!!箇所で、実際にはどうするか?自分に出せる最高音でめいっぱい叫ぶのである。もしくは、思いっきり低く声を落として、続きそうなはずの歌を急停止させてしまうのである。日本語のイントネーションは当然のごとくギザギザに尖ってしまうが、そのことが清四郎のやりたかった音楽、つまりは「日本語によるロック」を実現させているのだ。
それでも注意して聴いていると、二ヶ所だけ旋律の原型をなぞる歌い方をしている。「幸せは空の上に」と「悲しみは星のかげに」のところだ。ここは、1番と2番というだけで楽譜上は同じ音型なのだが、♭が音符に陰影をつけてちょっと雰囲気がブルーになるところ。ソウルがブルースが大好きだった清四郎のこと。ここだけは自己流に歌い飛ばすわけには、いかなかったのかもしれない。
無論、忌野の歌い方を許容できずに眉をしかめる御仁はいるだろう。しかし、彼のような多くの新しい音楽は、常にこのような型破りの個性の中から生まれてきたのだ。
そして、一度耳の奥底深くに巣を張った忌野の声は、もう聴き手の心から離れることはなかったのである。