オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ミューズの神が宿る時1 子守歌(後)

 彼女の出産に際し「子守歌」を送ろうと思いついたヨハネスに、まず彼女が昔歌ってくれたワルツを伴奏部におくアイディアが出てきた。
 さて、問題は肝心な旋律である。懐かしさと愛しさが、食道から喉元を甘く暖かいものがこみ上げるように溢れ出していた。「ミミソーミミーソー ミソドーシーラ ラーソー」赤子が眠っているゆりかごを、ヨハネス自身が揺すっているような感覚で、こみ上げてきた音がリズムになった。二節目は、一節を変化させ、流れるようにできた。
 有節で歌をつくる場合、肝心なのは三節目の展開なのだが、いつも難渋する箇所が、この時ばかりは不思議なほど、すんなりできた。ベルタの美しい歌声を思い出しているうちに「ドド ドーラファソー」一オクターブ跳躍する節が口をついて出ていたのだ。
 それはまるで、ミューズの神が「もうこれしかない、迷う必要はまったくないのよ」とでも諭すかのように、ヨハネスの曲を決めてかかっていたかのようでもあった。ヨハネスの経験では、このようなことは、あまりあり得なかったことだが、同時に彼は、あらためて自分の天才を信じる気になっていた。
 そして、できあがった「子守歌」は、これまでの彼の作品のいずれとも雰囲気の異なるものになり、一回聴くだけで誰もが口ずさめる愛らしい親しみやすい曲となったのだ。

 ヨハネス・ブラームス 作品49の4「子守歌」

※ 優れた創作や表現が生まれるとき、そこにはミューズの神が宿っているの  だろう。
  手前勝手な想像で、その瞬間を文章で再現したら、どんなものができるだ  ろう?疑似ノンフィクションのような・・何だか不可思議な文章になりまし  た。
  1回目は、ヨハネス・ブラームスの創作の中で、最も親しまれている歌曲  「子守歌」作曲の場面に立ち会ってみました。