オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

へそ曲がり音楽論 3 教え込まれ、刷り込まれてしまう美しさ

教えてもらわなければわからない音楽は、やはりある。だからこそ日本では公教育で音楽科を教えているし、街には音楽教室がたくさんある。
別に演奏に必要な楽譜を読み書きするための知識や演奏技能だけでなく、鑑賞だって決まりごとを知っていた方が、クラシックのソナタ形式やジャズのアドリブを聴くのに役に立つ?気がする。
教師側が、どこまで教えるか?生徒に体験してもらうか?の一線は結構微妙だろう。「これこそが美しい音である。または正統的な音楽である」というお墨付きというか定義が背景にあって(またはそれを信じ込んで)、教師は教えているので、生徒は自動的に受け身に回ってしまう。つまり刷り込みに陥りやすい。
楽しいじゃん!ワクワクするじゃん!!という内発的な気づきこそが、音楽を自発的に聞いたり、表現したりするエネルギーの源泉なのに、音楽との出会いが、教師の受け売り情報から始まっている現状でいいのかなぁ。
本来は、教師自身が優れた表現者であり、教師との出会い=ステキな音楽との出会いという形が、理想形なのだろうけど。優れた表現者が優れた教育者になり得るか?は別の視点で課題が残りそう。

音楽という果てしなく自由で広い世界に船出していく人々に、どうしたらその自由な広がりを伝えられるのか?大きなテーマだと思う。