なだいなだ「とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう」を読む
くねくね道のように、長い時間かけて移動していた距離が、飛行機や新幹線の利用によりすごく短縮されている。調べ物だってだいたいのことでよければ、パソコンやスマホでわかってしまう。ではその余っているはずの時間を何に使っているのか? 人生そのものも寿命が延びて、その分を何に活かしているのか? なださんの問いに自分自身の答えが用意できているのか? こういう問題提起の仕方がボクは若い頃から好きだった。
直接なださんの講演を拝聴したのは、2003年1月奈良で開かれた日教組の全国教研基調講演。この集会が開かれると市内に黒塗りの車が増え自治体からはあまりいい顔をされない。この集会にこの年だけボクも参加していました。なださんは、独特の斜め目線で教育について面白おかしく語ってくれました。
ところで長い本の題名「とりあえず今日を生き・・」を、とりあえず主義として紹介している。「人生をまとめて生きることはできない。できるのは今日一日を生きること」としてアルコール依存患者とジャガイモを育てる例を引きながら説明している。
不安について語る箇所で「悩みを通してしか賢くなれないことを、神は人間の掟とされた」というギリシャ悲劇の言葉を引いている。誰しも不安な状態から逃げたい。けれど精神安定剤を通して落ち着くことは、何か人として大事なものを失うことだと言っているかのようだ。
なださんは、ひねくれたところがあるから「お若いですね」と言われても引っかかる。若いことがとにかく善で、歳を重ねることにリスペクトが足りないと感じているようだ。ボク自身は「若い」の前の「お」が気になっています。「お若い」という言葉を使う対象がすでにほどほどの年配であることを前提にしている気がしてしまう。
ケストナーの印象的な言葉が最後に出てくる「人生には忘れてしまったことと、覚えていることと、二つしかない。忘れたことは過去で、覚えていることはいつも今だ」
このオヤジのあくびは、備忘録のつもりで書き始めたのだけど、すでにかなりのボリュームオーバーだ。でもとりあえず今日を生きている確認にはなっているのかもしれない。