オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

德勝龍関の優勝に思う。

予想外のことが起きる。たとえそれが意外なことであっても、喜ばしいニュースであれば、共感の輪は広がっていく。

初場所前に、誰か德勝龍関の優勝を予想した人がいるだろうか?十両と幕内を行ったり来たりで、あまり見栄えのしない相撲を取っているこの大型力士が、まさか優勝をさらっていくとは思わなかっただろう。準優勝に終わってしまったが、正代関についても実力者とはいえあそこまで活躍するとは予想していなかった人が多いと思う。

さらに優勝インタビューが笑いあり涙ありで、本当によかった。

私は「まだ33歳」という言葉が、心に響いた。同年齢の稀勢の里はすでに引退し親方だし、豪栄道豪太郎も引退するらしい。出世街道の先を突っ走っていた二人が引退なのに、德勝龍は、これから本領発揮なのだ。人生おしまいはない。いつも未来に向けて成長の道が開けていると感じた言葉でした。

私は、德勝龍関より30歳年上で、相撲を取っているわけでもないけれど、まだ63歳!の気概は保っていたい。そんな元気と勇気を与えてくれた優勝でした。

仕事に追われなくなったら、本でも読もう。

大学を受験した年から、もう45年になる。正規職員は59歳で辞めたので、仕事最優先の生活ではなくなってからもう4年くらい経つ。その間、今まで読めなかった本に結構ふれることが出来ている。読んでいる本は、文学以外のジャンルで、基本的に何かを学ぶために読んでいる。文学だって表現主題や文体など、様々学べるが、関心のありかがそこにない。

学び直すなら、学び始めるなら、大学とかカルチャースクールに行けばいいのだろうが、本を読んでいる。自分が何を学びたいか?テーマが結構広いこともあるけれど。

そもそも自分自身も学校の先生のくせに、学校が苦手である。教壇の前にいない時、つまり受講者の時は決まって一番後ろの隅に座っている。もちろん先生に顔を覚えてもらいたいなどという欲はない。かろうじて先生の言葉が聞きとれればそれで十分。先生の話を聴きながら、別のことを考えることができる。何か心に留まったことがあれば、それを受け止めておく装置が必要なのだ。それはノートでいいわけだが、先生がおっしゃった言葉、板書されたキーワードしか書いていないノートはつまらない。そこから自分自身がどうイマジネーションを広げられたか?が重要で先生のお言葉はそのきっかけを作ってくださっているに過ぎないのだ。だから最前列で先生と向き合って講義を拝聴すると、そんな余裕はないわけで、いつでもボケ〜っとしていていい、空間が大事なのだ。

何かを学ぶ。最も効果的なのは個人レッスンであり、日本にも昔から師匠と弟子というマンツーマンの関係があった。学びのターゲットが絞られて、尊敬できる先生が見つかればそれが一番いいと思う。現に私はそうやって琵琶を学んでいる。ところが、大学、高校でもいいが、あまりにも多くの学生、生徒が教室に詰め込まれており、当然一人ひとりの学力に差が生じるようになっている。この仕組みに渋々納得している時代は終わりにしていいと感じているのですが。

 

 

 

 

 

 

安倍政権は、プロレスの興行に似ている。

安倍政権は、プロレス興行に似ている。プロレスは、筋書きがほぼできている。まぁ、少なくともそれをやったらおしまいよ…暗黙の禁じ手があり、プロモーターから見放されて解雇はある。それを忖度と言う。

プロレスは、オリンピック種目とかと違い、反則をして構わない。ウケればいいのだ。これも支持率がそれなりに高い安倍政権に似ている。ちょこちょこ身内が反則しており、フェアプレイを重んじる正義感の強い野党を怒らせている。でも真剣に怒ってみても、もともと計算づくです反則をしている確信犯なのだから始末が悪い。

プロレスは、ボクサーとか比べて、恐ろしい試合数をこなす。すごい年齢になっても試合に出ている。たしかにタフだが、長続きできるように工夫している。スケジュール管理が上手いのだ。ハードな試合が一つのシーズン中にいくつもあるわけじゃない。それに引き換え安倍政権は、かなりハードなスケジュールを上手くこなしている。私は一次政権との間に、結果的に間が空いたことが、長期政権のが大きな理由と見ている。民主党政権安倍晋三にエネルギーを蓄積する時間を与えたのだ。

 

ジャイアント馬場や猪木が、最強でなくなってもメインイベンターを張れたように。実際セメントになれば当時の全日で一番強いのは、ジャンボ鶴田でしょう。自民党にとって安倍晋三が最強でなくてもよい。お客を呼べる=支持率が得られる政治家であればいいのだ。

 

こんなショーを日本国民は見続けてしまった。この安易な選択のツケは、きっとどこかで払わされることになるだろう。

天皇を一括した無礼者?伝2

日本一の大天狗…源頼朝to後白河法皇

源頼朝の初陣は平治の乱で、あまりにも若いとは言え、すでに戦闘能力があったのだ。だからこの時池禅尼のお情けとやらで、伊豆への島流しにとどめた清盛の判断は、平家にとっては大失敗であった。

この少年は、やがて平家はおろか、朝廷さえも脅かす、大勢力となり、ついには日本史上初めての武士政権を立てることになるのだから。

清盛の子どもたちや、平氏を追いやり滅ぼした木曽義仲源義経らが、後白河法皇のいいようにコントロールされる。しかしその二の轍を頼朝は踏まなかった。京都とは絶えず手紙でやり取りを行い、文面上は公家貴族勢力に対して、現状維持を約束していたのだ。彼が上洛するのは、奥州藤原氏を滅ぼし、後顧の憂いがなくなってからで、すでに押しも押されもせぬ武士勢力の頂点に立っていた。

後白河法皇は、彼の望む征夷大将軍を与えることはなかった。法皇の死去後に源頼朝は将軍となるのである。法皇(貴族政治)最後の抵抗だったかもしれない。これ以降建武の新政の短い時期を除き、江戸の幕末期まで天皇家が権力駆け引きに登場することはなくなるのだから。

さてさて、日本一の大天狗とは、頼朝と義経の仲が険悪となる中で、始め義経に対して頼朝追討の院宣を発したことに怒って、後白河法皇に向けて発せられた言葉である。兵力を持たない天皇家は、利用できる勢力は全て味方につけながら、源平動乱の時代を渡ってきたのだ。ただこの時の義経を味方に頼んだ判断だけは、完全に読み間違いであった。頼朝が激怒するのも無理はないのである。

 


ちなみにこの時代西海に平氏と共に沈んだ安徳天皇後鳥羽天皇の二人が、一時期並立する奇妙な時期がある。これも天皇家窮余の策であろう。

 

天皇を一括した無礼者?伝1

徳がない…楠木正成to後醍醐天皇

建武の新政の実現の背景には、執権北条高時に代表される鎌倉幕府中枢の呆れ果てた体たらくがあり、武士たちはそれに取って代わる政権を求めていた。北条側から転じて後醍醐天皇に味方した楠木正成は、千早赤坂城の戦いを始めとして、知略に富んだ戦いぶりで寄せ手の鎌倉勢を手玉に取り、それに手こずる間に鎌倉幕府が転覆したのだ。
さてさて、問題はそれからでして、後醍醐天皇はどうやら絶対王政的な権力をイメージしていたらしいのだが、当時政権に求められる判断力とは、土地トラブルの解決など今で言う民事裁判であったわけで、膨大な訴訟に対応できる体制が整わなかった。
どうもやることがオカシイし、自分たちが求めた政治と違うことに気づいた武士たちが、担ぎ上げたのが、足利尊氏。日本史上三悪人の汚名を着せられるが、元来が優柔不断で気持ちの振幅が大きい人で、反旗を翻した際の行動も「何をやっているんだよ〜」と言いたくなるようなじれったさである。それでも圧倒的多数の武士は足利支持に回っているわけなのでした。
圧倒的な不利の中で、楠木正成は一度は足利軍を追い返すことに成功するが、時代や人の気持ちが後醍醐天皇から完全に離れていることを見抜き、次のように進言する。
「天下の諸将はみな尊氏についていく有様です。負けた足利軍に武士はもちろん、京都のものまでもが付き従い、勝ったはずの天皇の軍を捨て奉ったでは、ありませんか。これをもって帝はご自分に徳がないことを知るべきです。」
この後、迫る足利軍に対して、一旦京都から退くことを献策するが受けいられず、ほとんど
自ら死地を選ぶが如く湊川に出陣し、敢え無く生涯を終える。
現在も皇居前広場に馬にまたがった像があるが、忠臣正成は後醍醐天皇を諌めようとした人物としても記憶されるべきだと思う。

マクロ教育とミクロ教育5

子どもたちに必要な教育。それは今流行りの言葉を使えば、持続可能な開発=未来を約束する教育である。しかし、事態は極めて混沌としている。つまり、平和も環境も人権問題も、今の大人世代では解決するできるか、怪しいのだ。スエーデンのグレタさんが立ち上がって、世界中に共感する動きが広がっているのは、本当に嬉しい。
本来なら教科書には書くべきなのは、彼女を突き動かしている問題意識なのだろう。マクロ教育について、私はその点を期待したい。
ミクロ教育については、自分の子に何が大切なのか?親が、保護者が子どもと共に考え続けるべきだと思う。AIがプログラム化が可能な作業を仕切る時代を迎え、人間には必要な能力とは何か?が問われている時代だと思います。
出口が見えない袋小路から逃げる。例えば塾に任せて、有名な学校に入れば親の役割はおしまいではないはずだ。有名な学校→有名な会社→安定した生活という図式は、通用しなくなってからずいぶん経つ。ただその子にとって考える場所、議論する相手、研究できる環境を可能な範囲で整えていくことは大切な気がします。それを突き詰めるとまともや国内の教育・研究環境が貧弱であることがクローズアップされてしまうけれど。
子どもは成長する。時には親の予想を超える、しかも思わぬ方向に。だからこそワクワクするじゃありませんか!解は、その子が切り拓く未来の中にしかないのです。

マクロ教育とミクロ教育4

当事者として何とか乗り出すべきは、やはり保護者(親)である。あまりの強引さにモンスターペアレントと揶揄されてしまう場合もあるだろうけれど、我が子のことを考えれば、冷静でいられないのは当たり前である。
ただ、一方的に要求しても、不甲斐ない学校がびびっているだけでは意味がないので、子どものために何が最適解なのか?最低限ベターなのか?議論する姿勢を保っていたい。
親は時として我が子を客観視することが難しいので、ある程度までなら成長に関する客観的な情報を持っている学校と情報共有するのは、全く無益ではないはずだ。
もちろん教員との信頼関係が大前提なのだが、取り返しがつかないくらい情けない事件が教育現場で頻発しているので、信頼?そのものに無理があるかもしれない。しかし、それでも語り合っていかなければならない。そう世界でただ一人の自分の子どものために。
また学校に求められ、対応がある程度可能なのは本論で言うミクロ教育の部分なので、マクロな教育行政に関して不足している部分を現場教員に訴えても、あまり効果はない。何せ本当に乏しい予算で、ほとんどの学校は運営されているのだから。