オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

関東巨大仏巡りの旅7

3/29 17:13
時間的にハラハラしたけれど、湘南新宿ライン国府津行きに間に合う。

高崎観音をお参りした後、ぐるりんバスの時刻まで間が空いたので、参道をゆっくりと下る。観音様のところでは、お守りと観音もなかを家族分求める。
参道をのんびり下ると開けたところに出て、下ってきた場所なのにバス停には観音山山頂と成っている。駐車場の横が展望台のようになっていて、川を挟んで高崎市街が一望に見渡せる。振り返ると参道の商店街の向こうに観音様が見える。

お守りを選んでいる時に、身代わり観音というお守りがあった。観音もなかの店でも自分の身体の悪いところから食べてくださいと言われる。
これって、やなせたかしさんのアンパンマンの発想と似ている。もちろんこのような信仰をやなせさんが作品に取り入れた順番何だろうけれど。
観音様の側に立てば、他者のために自分が犠牲になるわけで、世の中の人々の罪を一身に背負って磔にされたキリストも同じ。
しかし誰かが身代わりになってくれたところで、自分のつらさや痛み軽減されるのだろうか?実際には、そんなはずはない。
むしろ誰かが支えてくれている、助けてくれているという感覚が、自分を後押しすると言うか、踏ん張る力になるような気がする。

お国のために、陛下のためにという自己犠牲を強いた反省から、その正反対から戦後教育はスタートした。当然自己犠牲について、あまり教えてこなかった。
その結果「自分がやらなければ誰がやる」という発想、覚悟・勇気は薄れてしまい、「自分一人がとんがらなくても何とかなるようになるさ」的な横並び官僚的な無責任主義が蔓延してしまった。今話題の森友問題だって根っこのところは似た雰囲気を感じる。

本当は身代わりはいないし、実際になることもできない。でも寄り添うことなら不可能ではないはずだ。